2:シュルークの皇子


 自分がいて、こんなふうに空が晴れ渡っているところなど見たことがなかったものだから、つい幼子のような発想をしてしまった。砂漠というのは、雨呼びの力をもってしても雨の入り込めない、特殊な地域なのかと――ルエルの言葉にしなかった疑問を的確に拾い上げて、答えた使者はにこりと愛想のいい笑みを浮かべると、鞍の脇に水瓶を取りつけてあると言って、ルエルに喉を潤すことを勧めた。
 駱駝は黙々と、日の昇った砂漠を西へ進む。

 一行が目的地であるシュルーク帝国の街壁をくぐったのは、それからさらに六時間は歩いて、太陽が天頂をわずかに過ぎたころだった。華やかな行列を一目見ようと集まる人々は、みなニフタの市民とは風情の違った服装をしている。
 元々の血筋なのか、この気象のせいなのか、日に焼けたような褐色の肌が目立った。導師の話を思い返して、そういえばシュルークは元々多くの民族が入り乱れていた地域で、人々の外見も幅広いのだということを思いだす。ルエルがちらと顔を動かすと、路地に詰めかけていた人々が湧きたった。大きな日傘とヴェールが影を作って、彼らのほうからはあまり、ルエルの顔がはっきりと見えないらしい。
「騒々しくて申し訳ない。これでも事前に、騒ぎ立てぬよう言ってあったのですが」
 使者は人々の無礼を詫びたが、ルエルはそれほど気にしていなかった。構わないというよりも、心がざわめくほどの出来事ではなかった。
 幼い頃からずっとそのように育てられてきたからだろうか、よほどのことでなければ、ルエルは動揺しない。ただ漠然と、物事は目の前を過ぎていく。それらのことにいちいち心を動かされていては、ニフタを水の底に沈めてしまいかねなかった。
「ああ、着きました」
 使者がほっと、安堵した声を出す。王宮が見えてきたのだ。門を護る兵士の出で立ちは、ニフタよりも絢爛豪華で、まるで一つの調度品のようだった。ドーム型の屋根が、大小いくつも並んでいるのが見える。全体的に青と白を基調として、細部に施された金の装飾が光を弾き、眩しかった。
 行列が門をくぐる。

 広い庭を、石の歩道がまっすぐに貫いていた。正面にはまた門があり、兵士が行列のためにそれを開く。駱駝の上から、ルエルは白い歩道を眺めていた。所々に瑠璃色の模様が描かれている。タイルだろうか。
 瑠璃色の菱形の中に白い菱形があり、またその中に瑠璃色の菱形があった。じっと見ていると、照り返しに目の奥がくらりとして、顔を上げる。
 先導の使者は一つの大きな建物の前で足を止めると、荷物を載せた駱駝たちを移動させ、ニフタの運び手たちもそれについていった。行列は半分ほどになった。どうやらここから先は、再び輿に乗せられてゆくようだ。
 ルエルは駱駝を降りて、数時間ぶりに輿へ戻った。空の青が瞼の裏に、じんじんと焼けついていた。長い歩廊は屋根があり、砂漠のような暑さは込み上げてこない。輿は軽やかに進んだ。兵士たちの足音が、外を波のように流れていく。
 噴水の音、人の話し声、白く巨大な柱の作る影、細い葉を垂れ下げる木。輿の中からぼんやりと、いくつの風景を見送った頃だろうか。前方で話し声に続いて扉の開く音が聞こえ、行列が散らばっていた足音を、行進するように整えた。
「どうぞ」
 輿がゆるやかに、いくらか進んでから下ろされた。扉を開けたのは砂漠からずっと、ルエルを乗せた駱駝の手綱をひいていたシュルークの使者だ。手を借りて一歩、外へ踏み出す。
 瞬間、身体の中に入る空気が、これまでとはまったく違っていることに気づいた。
 ルエルはそっと、後ろを窺った。行列はその最後尾まで、まっすぐに敷かれた絨毯の両側に並んで跪いている。使者はルエルを立たせるとすぐ、同じように膝をついた。
 大理石の柱と柱の間の壁には、華やかなタペストリーがかけられている。その上に窓があり、光が差して、風が流れ込み、室内に満ちる柑橘系の香りをゆったりと撹拌していた。
 ルエルは自分のドレスの裾に目を落としたまま、絨毯の上を歩んだ。そうして左右の頭を垂れた行列が途切れるところに着くと、自らも膝をつき、頭を下げた。
「お初にお目にかかります。ニフタ王国第一王女、ルエル・トーラと申します」
 ニフタにいたとき受け取った文で、宮殿で自分を迎えに立つのが誰なのかは知らされている。
「直々のお出迎え、感謝いたします。――シュルーク帝国第一皇子、ジャクラ=ディ=ハザール様」
 何者も息をしてはならない。そういう令でも下されたように、室内は静まり返っている。ルエルの声はその中で、たった一つの生き物の気配のように響いた。
 数秒、間があったように感じた。もしかしたらそれは一瞬だったのかもしれない。正面で人の動く気配があって、衣擦れの音と、近づいてくる足が見えた。ルエルはそれを見てしまわないよう、目を伏せる。
 ふっと、苦笑するような呼吸が、傍で聞こえた。
「顔を上げてくれ」
 静けさを、ものともしない。張り詰めた静寂をいとも呆気なく破る、伸びやかな声だった。引き上げられるように、瞼を開ける。
 しゃがみ込んだ膝にのせられた、褐色の手が最初に目に入った。金と瑠璃の糸で刺繍の施された、白いチュニック。広く開いた襟元に、三重の首飾りが覗いている。珈琲色の、癖のある髪を後ろで束ねているようだった。房を下げる金糸の髪留めが、肩のすぐ上で揺れている。
 琥珀色の双眸が、ルエルの藍色の目を覗き込み。
 青年は唇を吊り上げたかと思うと、ルエルの背後の行列に向かって声を張り上げた。
「誰だ? 遠路はるばる砂の海を越えてきた俺の婚約者に、このような古い慣習を教え込んだのは?」
 跪いて沈黙していた人々が、ざわめいた。静かだった室内が、一瞬にして天井まで騒がしくなる。ルエルは一瞬、そのどよめきに圧されそうになったが、青年が立ち上がろうとしたのを見て、我に返って袖を掴んだ。


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