3:雨憑姫≠ニ煌野の皇子


 羊肉と干し葡萄の、甘い煮込み。
 トマトソースで煮付けた白身魚と、大輪の花のように並ぶ、油で揚げたムール貝。
 手前には白いんげん豆のサラダと、鮮やかな海老のグリル。
 花瓶を一つ隔てて向こうに、葡萄の葉で巻いた米の何か。
「どうだね、口に合いそうなものがあれば良いのだが」
 何か――断定のできなかった、見知らぬその料理が、宮女によって取り皿に盛られ、目の前に置かれていく。曇りなく磨き上げられた銀のナイフとフォークを手に、ルエルは顔を上げて、斜向かいに腰かけた壮年の男性を見上げた。
「どれも美味しくいただいております、フォルス陛下」
 琥珀色の目を、皺の刻まれた褐色の瞼の間から覗かせ、問いかけた男性は満足げに微笑む。彼こそはフォルス=ディ=ハザール。シュルーク帝国の、現皇帝だ。
「本当に? 砂漠の向こうでは、食事もずいぶん違っていると聞き及びましたわ。今日はあなたのために色々と取り揃えてみたのですから、遠慮せず、食べられないものはこの機会に言ってしまって頂戴ね」
 隣に腰かけていた女性が、身を乗り出して言った。目鼻立ちのくっきりとした、正面から覗き込まれると思わず背筋を伸ばしてしまいそうになる、見るからに聡明そうな女性である。
 皇妃ナフル。フォルスに比べると、一回りは若いだろうか。長らく後宮制度の名残りを持っていたこのシュルークで、自身の結婚と引き換えにそれを廃止させたと言われる、現皇帝の唯一の妃である。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。遠慮ではありません。どれも本当に、美味しいので」
 ルエルは答えて、手元の葡萄の葉にナイフを通した。米と、牛肉が一緒に巻いてある料理だった。海のものにはそれほど馴染みがなかったのだが、貝や海老なら多少は食べたことがある。魚も先ほど食べた感想としては、特に苦手ではない。肉料理は、牛より羊が多いようだ。ニフタでも羊肉のほうが定番だった。
「そう? それならいいけれど……」
「ナフル様は、ご自分のお食事も忘れて気にかけておられる。よほどニフタの王女殿が心配なのですか」
「だって、大臣。なんだか小柄で小食だわ。私、自分がよく食べるからつい」
 もっとも、ニフタで最も多くテーブルに並ぶ食材といえば、野菜だったのだが。ここではジャガイモや蕪よりも、肉や魚を煮込んだトマトの赤が目立つ。
 昼空の下、歓待の宴に並べられた一通りの料理を眺めて、ルエルは大丈夫そうだと心の中で納得した。ニフタの導師の話では、変わった料理が多いようなことを言われて覚悟していたのだが、味つけの幅は広く、馴染みの味に近いものも多い。
 隣のテーブルに並んだ大臣たちが、ナフルと和気藹々と言葉を交わし、何やら笑っていた。宮女がその中を、銅の器で水を注いで回る。なな、はち。ルエルは宮女の歩き回るさまをぼうっと見ながら、宴に同席した大臣たちの人数を数えた。全部で八人だ。自己紹介を受けたが、改めて見ると思い出せない名前が何人分かある。
「おい、こら。聞こえないと思って好き勝手をいうな」
「えっ?」
 ふいに、隣に腰かけていたジャクラが声を上げたもので、ルエルは思わず振り返った。琥珀色の目が、驚いたように見下ろしてから、ちらと彷徨う。
「ああ、いや。君に言ったわけではなくてだな……」
「?」
「ははは、皇子。女性をそのように驚かせては、嫌われてしまいますぞ」
「誰のせいだ、ザキル」
 不明だった名前が一人分、思い出せた。そうだ、そんな名前だったと握手を思い返して、レンズ豆のスープに口をつける。頭上を大臣とジャクラの声が、何度か飛び交ってぶつかった。
「ザキルが騒がしくて失礼をいたしました。何か甘いものでもお取りしましょうか?」
「あ……、いえ。もう」
 名前の覚えきれなかったうちの一人が、スープを飲み干したルエルを気遣うように声をかけてくる。礼を言って辞し、ルエルは手振りで満腹の旨を伝えた。フォルスが宮女を呼び寄せ、何事か指示する。
 やがて銅の盆に乗せて、人数分のグラスが運ばれてきた。
「石榴酒とチャイと、どちらがいいかしら?」
 ナフルが明るい声で訊ねる。
 彼女とフォルスのグラスには、すでに紅い果実酒が注がれていた。大臣たちやジャクラのグラスも、すぐに同じ紅で満たされていく。
 シュルークでは、果実酒は薬だ。宴の席では特に、子供から老人まで、禁じるということはなく、それぞれに応じた量が振る舞われる。だが、ニフタでは十八歳までは飲酒をしてはならないという決まりがあった。ルエルは今年の六月に、十六歳になったばかりだ。
「チャイでお願いします」
 一滴も口にしたことのないものを、ここへ来て二日目の宴席で飲み干すというのも不安があり、石榴酒は辞退した。宮女はすぐに紅茶の用意をしてくれる。チャイであれば昨晩、眠る前にと部屋に持ってきてもらったので、安心して飲める。
「そうか。なら、俺もあとにしよう」
 隣から聞こえた声に、ルエルは一拍遅れて顔を上げた。
「悪いが、チャイに変えてくれ」
 手にしかけていたグラスをテーブルへ戻して、ジャクラが宮女に頼んだ。かしこまりましたと礼をして、彼女は注いだばかりの石榴酒を下げる。
 フォルスが瞬きをして、正面に座る息子を眺めた。
「どうした、ジャクラ。お前は馴染みがあるだろう」
「はい、父上。しかし実は、この後、彼女に宮殿内を案内しておきたいと思っておりまして」
「お前が、自分でか?」
「はい」
 思いがけない話に、ルエルはまじまじとジャクラを見上げた。フォルスと同じ質問が、口をついて出そうになる。


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