10:遠い感情


 一日が経ち、二日が過ぎ。
 眠りの儀が四日目を迎えても、人々の思いに反して雨は降らなかった。日招きの力は眠っているというのに、照りつける太陽は無情に強く、砂ぼこりは王宮の歩廊まで入り込んできている。
 宮女たちが掃除の合間に歩廊を掃いて回り、水路に流れる水の嵩が減ってきていると口々に噂をする。
 ハーディは「これくらい、珍しいことではありませんよ」と言って笑った。ジャクラが眠りに就いたからといって、必ずしも雨が降るとは限らない。二ヶ月続けて降らなかったときでさえ、何とかなったのだから、と言う。けれどルエルはそのハーディが、アルギスと二人で、一度オアシスの状態を見に行くべきかと話し合っているのも知っていた。
 王宮にいると、つもりはなくても色々な話が耳に入ってしまう。
 雨を待ち望む人々の声と、彼らから向けられる声なき視線が重い。少しの間だけ、その圧迫感から逃れたくなって、ルエルはサルマのいないときを見計らい、白の間へ出かけることにした。
 ドレスを身軽なものに着替え、髪飾りを外す。何か印象をごまかすものを、と辺りを見回して、ソファーの上に置いてあったムラーザの膝掛けを手に取った。ショールとしても十分に使えるそれを、日よけのフードのように頭に巻いて、横で大きく結び目を作る。以前に白の間で、そういう格好の買い物娘がたくさんいるのを見かけたのだ。
 鏡に映った自分の姿に、ルエルはこれなら大丈夫だろうと満足した。王宮勤めの若い娘が、めかした服を着て遊びに出てきたようにしか見えまい。
 テーブルに紙を一枚置いて、サルマへ宛てた書置きを残す。行き先と、夕方までに帰ってくる旨を記して、部屋を出た。

 シュルークの午後は気温が高い。宮女は大抵、午前のうちに洗濯や庭仕事など、外での作業を終わらせて、午後は屋根の下で掃除をしたり料理をしたりと働いている。そのため昼下がりの回廊はほとんどひとけがなく、藍の間を出てから白の間へ着くまで、誰に呼び止められることもなかった。
 門の前に立つ警備兵は、入る者には厳しいが出て行く者にはさほどの警戒をしない。ルエルがショールを目深に被って、お疲れさまと会釈をするように通り過ぎたときも、彼らは宮女にするように軽い会釈を返して通した。
「いらっしゃい。さ、見てお行きよ」
 金銀細工に銅の飾り物、織物にガラス、宝石に書物、果物。
 ありとあらゆるものが集まる白の間は、砂ぼこりなど相手にもせず、今日も今日とて商人の声と客の足音で賑わっていた。絨毯の上に足を組んで、甘い砂糖の練り菓子を売っている商人がいる。かと思えばその隣では宝石商人と客が、大ぶりのルビーを間に交渉を白熱させている。斜向かいの家具屋は商品である椅子の上で転寝をしていて、隣の食器屋がそこに来た客を、自分の店に引き込むべく話を続けていた。
 喧騒の中、まっすぐに伸びる一番広い道を、ルエルは歩いていく。
 瑪瑙の髪飾り、銀の水差し、赤い絨毯。干した無花果、桃のパイ、ナッツや薔薇のシロップを氷水で溶いたシェルベティ。塔のように積み重ねられた蝋燭、薄い陶器の皿、アニスの蒸留酒。七色のランプ、瓶入りのオリーブオイル、麻の袋で量り売りされるひよこ豆。
 目に映る色も、鼻をくすぐる香りも、溢れんばかりに入り乱れている。一つ一つが存在を主張するように、あるものは輝き、あるものは甘い香りを放ち、五感を惹きつけないものは何一つとしてない。
 けれどルエルは漠然と、その中を歩いていた。傍らの客が一人、また一人と思い思いの店で足を止めるが、ルエルの目にはどこまで行っても、同じ景色が続いているようにしか見えない。すべて、瞳の中を通り抜けていくようだ。華やかで美しいが、それだけで、心が引き留められることはなかった。
 以前に来たときは、何もかもの前で足を止めていたというのに。
 他人事のように思いながら、薬屋と織物屋の前を通り過ぎる。差し出された試食の練り菓子は甘く、石榴の味がほんのりと喉に絡んだ。吸い込む空気が甘さを帯びて、色とりどりの景色と人々の声が起こす市場の熱気に、体の内からとらわれたような感覚になる。
 次第にぬるい風が作る波の中を、流れのままに漂っている心地がした。ぼんやりとして、何を考えているのかも明確に考えてはいなくて、過ぎていく景色だけをどうするわけでもなく見つめている。耳には膜が張られたように、賑わいはどこか遠く聞こえた。
 だからルエルは、気づくのが遅くなった。人波を裂いて後ろから響いてくる、金切り声のような叫びに。
「泥棒よ――!」
 きゃあ、と悲鳴を上げた人が肩にぶつかってきて、はっとする。振り返ると、通路に集まった人々の向こうから、黒い布で顔を覆った男が飛び出してきた。
 手に袋を持っている。反対の手にあるのは、どこかの店から奪ったらしい銅製の花器だ。
 くびれた口を手で握って、男は通路の中心で立ち尽くしたルエルに、それを振り上げた。
「どけぇっ!」
「……っ」
 足が竦んで、避けることができない。
 殴られるのを覚悟して目を瞑ったそのとき、ガキン、と金属のぶつかる音がして、男の呻く声が聞こえた。
「……やれやれ、繁盛するのはいいことだが、人が多すぎると散らばるまで武器が振るえないのが厄介ですな」
 ふう、と息をつく、低く掠れた声。恐る恐る目を開けて、ルエルは自分を庇った後ろ姿に、覚えのある名を呟く。


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