10:遠い感情


 シュルークの空は再び、一点の曇りもない青に包まれた。飛ぶ鳥も羽を休めるほどの晴れすぎた空の下、大地は乾き、砂漠から流れてくる薄い砂ぼこりが街を渡る。
 雨はあの日を境に一滴も降らず、容赦なく照る日差しを遮る、一片の雲さえ姿を見せない。
 そんな日々が十日を過ぎた今日、王宮ではジャクラが眠りの儀に就くことになった。
「ええ……、それでは」
 重く沈んだ空気の中、声を上げたのはアルギスだ。杯を手に、テーブルへ置いた薬瓶をちらと見下ろす。彼の視線は大臣たちを通り、俯いたナフルを通って、フォルスと無言で重なって、ルエルに留まった。
 ルエルの目は、アルギスを通り越して、彼の後ろにいるジャクラを射止めていた。ジャクラもまた、じっとルエルを見つめ返す。
 しかしルエルはただ見ている≠セけで、彼と目が合っても、眉一つ動かす気配はなかった。藍色の、夜の底のように澄んだ目をして、ひとり別の世界にいるかのようにしんと立ち尽くしている。
「アルギス」
 やがてジャクラが要求するように、手を差し出した。
「しかし……」
「いい。貸してくれ」
 最後まで渋るアルギスを制して、杯を強引に取る。誰もこの期に及んで、反対の声を上げる者はなかった。雨が降らないのであれば、降らなかった頃と同じように。彼が眠りに就かない限り、オアシスの水は減り続ける。
 毒と紙一重の救いの薬を、ジャクラは飲み干した。
 その光景を漠然と見つめていたルエルは、胸の内側を冷たい雫が伝っていくのを感じたが、それが自分の悲しみであることには辿りつけなかった。横たわるジャクラの手から、空になった杯をアルギスが受け取る。
「お休みなさいませ、皇子」
 大臣たちが口々にそう言ったとき、ルエルはそっと目を伏せた。心はとても静かだったが、同じ言葉を口にしていい立場ではないことは、頭で分かっていた。

 ルエルが中庭で二人を見たあの日、飛び出していったサルマからルエルの様子がおかしいと聞いたジャクラは、公務を早めに切り上げて部屋へ訪ねてきた。彼の声を聞いたとき、動かないはずの心がかすかに震えたのを感じて、ルエルは素直にドアを開けた。
 一目見ただけで、ジャクラはルエルの変化を察したようだった。息を呑んで押し黙った彼に、先に口を開いたのはルエルだ。
「心配をおかけしてすみません。……お仕事は、もう終わったのですか?」
 問いかけたとき、一縷の希望を胸に隠していたように思う。ジャクラが来たのはすぐのことだったので、ルエルは彼が、青の間から駆けつけたのではなく、中庭にいたその足で自分のもとにやってきたのだと分かっていた。本当のことを教えてくれたら、一度は閉じた感情を開いていたかもしれない。
 けれど彼は、中庭での一件には触れず「ああ」と答えたのだった。
「お前の様子がおかしいと聞いて、急いで戻ってきた。さっき急な雨があったが、何かあったのか?」
 結んだ髪の先は濡れていて、屋根のついた歩廊を戻ってきたのでないことは見れば分かる。それでもジャクラは、彼女のことについて、何も教えてはくれないのだ。
 動きかけていた心が、完全に止まった。
 それから後に話したことは、ほとんど覚えていない。ルエルはうやむやに、今日は具合が悪いから休ませてほしいというようなことを伝えて、ジャクラを追い出し、夕の散歩も行かなかった。看病につこうとするサルマを断って、眠りたいからと言って、一人になった。
 夕食も部屋で摂り、ベッドにうずくまって一晩眠る。そうして目を覚ますころには、ルエルはすっかりニフタにいた頃の、沈黙した心を取り戻していた。
 朝食の席でのフォルスやナフルの目も、ハーディの困惑も、サルマの寂しげな微笑みさえも今のルエルには響かない。みな戸惑って、踏み込んで訊ねてくる者はジャクラ一人だった。
 彼はルエルを問い詰めたり、これまでと同じようにあらゆる場所へ連れ出したりしたが、ルエルは頑なに感情を閉ざして、理由を明かそうとはしなかった。けれどジャクラから距離を取ったり、傍にいることを拒絶したりもしない。
 靄がかかったような意識の中で、ルエルもどうしてと思いながら、おいでと呼ばれるままに歩みを止めて抱きしめられた。ジャクラは何かを言いかけたが、結局は何も言わず、長い時間を無言でそうしていた。

「……はい、大丈夫でしょう。眠っておられます」
 ベッドの上、規則正しく上下する胸を見下ろして、乱れのない脈を確かめたアルギスが告げる。ナフルが安堵に表情を和らげ、フォルスと共に公務へ戻っていった。大臣たちも連れ立って、続々と眠りの間を後にする。
「さあ、ルエル殿……」
 最後まで壁際に立っていたルエルは、アルギスに促されて、一人ゆっくりと背中を向けた。カーテンを閉め切られた眠りの間と対称的に、廊下は窓が大きく、晴れ渡った空がよく見える。
 外に雨の気配はまだなく、光は白く明るくて、遠くの角を蜃気楼のように霞ませるほどだ。
 ルエルは振り返らずに、部屋への道をまっすぐ歩いた。


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