10:遠い感情


「ムラーザさん?」
 腰を抜かした泥棒に三日月刀を突きつけていた男は、振り返って「はい」とまだらの髭に囲まれた唇を吊り上げ、笑った。
 近くの商人たちが次々と集まって、どこからか持ち寄った縄で男を拘束していく。覆面を剥がれ、連れていかれる泥棒から切っ先を下ろすなり、ムラーザはまっすぐにやってきて、俯いたルエルの前で一礼した。
「ご無事ですか、王女どの」
 その言葉に、下げていた視線を上げる。両足が少し震えていたが、どこにも怪我はなかった。躊躇いがちに大丈夫、と頷くと、ムラーザも頷き返す。
 彼の店は、この通りではなかったと記憶していたのだが。
「お一人でいらっしゃるご様子でしたので、失礼ながら、後ろから見張りをさせていただいておりました」
 ルエルの戸惑いに答えるように、彼は言った。
「どうして、私だと?」
 見知った店の人々にも、門の警備兵にさえ怪しまれもしなかったのに、なぜ遠くから見たくらいで分かったのだろう。訊ねるとムラーザは、剣を納めた手を自分の頭の横に伸ばし、軽く触れてみせた。
「商人というのは例え手放しても、自信のあった品をなかなか忘れないものです。後ろ姿にも、一目で分かりました。大切にしていただけているようで、光栄にございます」
 真似るように手を伸ばして、ルエルは自分が頭に巻いたショールに触れた。滑らかな絹の冷たさが、指先に馴染む。今の騒ぎで結び目が緩んでいたのか、ショールはルエルの手首に落ちて、隠していた顔を晒してしまった。
 けれど、もういいだろう。周囲にはとっくに、ムラーザとの会話でルエルの正体に気づいた人が集まっている。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「いいえ、お言葉をいただくには及びませぬ。私があなたに会わせていただいたのは、このようなときのため。ほんの一度、役目を果たしただけにございます。……王女どの」
 伸びた髭を撫でて、ちらと窺うような視線を向けたムラーザに、ルエルは小さく首を傾げた。
「何があったか存じませぬゆえ、失礼を申し上げるかもしれませんが」
「はい?」
「……私はまた、あなたが変装などなさらず、皇子とお二人で来てくださるのを心待ちにしておりますよ。いつまででも」
 深々と頭を下げたムラーザの言葉に、ルエルは返事をすることができなかった。怒りも湧かなかったが、約束できる答えも浮かばなかったのだ。周囲に立ち尽くした人々は、沈黙してルエルの言葉を待っている。
 ルエルは無言で、ムラーザに一礼してその場に背を向けた。人ごみは自然と開けて、道は青の間へ続く門まで、静かに繋がった。
「ルエル様……!」
 ショールを手に門をくぐると、回廊の向こうからサルマが迎えにくるところだった。書置きを見て走ってきたのだろう。細い肩を上下させて、息をしている。
「……ごめんなさい。迷惑をかけたわ」
「いえ、ご無事でしたなら」
「藍の間へ帰りましょう。私は大丈夫だから」
 ルエルは彼女が口にする前に、自分からそう言って、回廊を歩き始めた。膝の震えはいつの間にか治まっている。背後では再び賑わいを取り戻した白の間が、人々のざわめきで埋め尽くされていこうとしていた。


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