9:氷の扉
「ルエル様? どうかなさったのですか?」
脳裏に渦を巻く、黒雲をぶつけてしまいたい。けれど怖くて、すぐには訊くことができなかった。
「少し頭が痛むの。……悪いけれど、水を持ってきてくれない? どうしても、冷たいのが飲みたくて」
いつまでも顔を向けないルエルを、変に思ったのだろう。サルマがベッドに向かってこようとしたので、ルエルは思いつきの嘘で、一旦、彼女を外へやろうとした。サルマは真に受けたようで、まあ、と心配そうな声を上げる。
「すぐに持って参りますわ。薬は……」
「平気よ、大した痛みじゃないし」
「でも、もしかして熱がおありなのではありませんか? お声が震えて」
「大丈夫ったら。本当にいらない」
遮るように発した言葉は、思いがけず強い口調になって、サルマを押し黙らせてしまった。威圧した、と気づいて後悔したが、顔を見られたくないやらサルマへの疑念がまだ渦巻いているやらで、頭の中がいっぱいで、すぐに謝ることができなかった。
「平気よ、たぶん――」
嘘に与えられる気遣いが心苦しくて、せめて何か伝えなくてはと口を開く。
「……ただ少し、日に当たりすぎただけなの」
言った瞬間、眦から一筋、涙がこぼれた。
サルマはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて「分かりました」と一言だけ答えて、水を取りに出て行った。
これは本当のことよ、と、一人になって心の中で呟く。
いつからか、太陽の下を歩くことが当たり前になってしまっていた。光が惜しみなく自分に注がれることに、その温かさに、浮かされていた。雨憑姫≠ナあるからここにいるのだということさえ、忘れかけるくらいに。
婚約者であっても、どれほど近くにいても、好きだと言われたことは一度もなかったのに。
(どうして、疑いもしなかったのかしら。恋が、私だけのものではないと)
雨の鎮まる音に、のろのろと身を起こしてカーテンを開ける。溺れるほどの目映い光が、雲を薙ぎ払って、青空を連れ戻したところだった。
見下ろす中庭に、二人の姿はない。誰もいない。当然だ、あれだけの雨の中、屋根もない場所に残る人などいない。
追い払われて行き場を見失った雲が溜まっていくように、内側から息苦しくなってきて、ルエルはきつく胸を押さえた。冷たい波のような、黒い霧のような、暗い感情が体の中を巣食っていく。感じたことのない苦しみは座り込んでも膨張して、このままでは自分がばらばらになって砕けてしまいそうな、そんな怖さを覚えた。
――逃れたい。
ルエルはその一心で、膨れ上がる苦しさを抑え込もうと扉を閉めた。
一枚では不安でまた一枚、その上からまた一枚。開かれていた扉を次々と閉めて、胸の奥深く、最果てにその感情を閉じ込める。
同時に、他の感情が一緒に閉じ込められていくことも、今は厭わなかった。感情は、すべて繋がっている。都合のいいものだけを残すことはできない。喜びを解き放てば必然的に悲しみを知り、苦しみを追放するためには、楽しさを手放さなくてはならない。
連鎖する感情のすべてに、扉が閉められる。
怖くはなかった。ルエルにとってそれは、あのニフタでの静かな毎日に戻るだけであって、未知の苦しみと違って既知の静寂だった。何も感じない。何ものにも揺らがない。
「――――」
恋も今は、化石のように息を殺して眠るだけ。
ルエルはそうして胸の中にあるすべての扉を閉ざし、最後にその鍵を、見えない氷で覆った。
部屋に戻ってきたサルマはルエルが窓辺に立っているのを見て、体調がよくなったのかと喜んで駆け寄った。だが、振り返ったルエルの眼差しを見て、彼女は持ってきた水を取り落としてしまう。
ルエルの目はすでに、体温を持たない人形のように透明で、涙もなければ微笑みもなく、シュルークに来たばかりの頃に戻り果てていた。
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