9:氷の扉


 分かっているのに、できなかった。それどころか、ようやく動いたルエルの体は、正しい意思に反して柱の陰に隠れたのだ。
(どうして……)
 自分のしていることへの、怖れで背筋に緊張が走る。ここにいてはだめだと、頭はこれ以上ないほど繰り返しているのに、耳を澄ませてしまう。どうか誰にも見つかりませんようにと、辺りを見回す目の奥に、女性の姿が甦った。
 宮女とはまったく違う、質の高い身なり。サルマと同じか、もう少し年上かという二十歳すぎに見えた。金色の豊かな髪に、白く鼻筋の通った、大人びた横顔。ジャクラとそれほど離れていない背の高さが、細い体をよりしなやかに見せる。
「それならいずれは、雨がもっと日常的に降るようになりそうね。今はまだ、あなたの力のほうが強いみたいだけれど」
 聞こえてきた雨という言葉に、ルエルは思わず柱を振り返った。ルエルの話だ。
 同時に、彼女がやはり宮女や民間人ではないことが確信された。いくら親しみを持っていると言っても、こんなふうに気安い口調で、ジャクラと話せる人は限られている。
 ああ、と嬉しそうに答えるジャクラの声が聞こえた。
「そうしたらあなたもまた、シュルークで暮らせるだろう。長い間、俺のせいであなたを……」
「いいのよ、ジャクラ。私は待てるわ、何年だって。謝らないでちょうだいって、前にも言ったでしょう」
「そうだったな」
「でも、嬉しい」
 柔らかに、女性の微笑む声がする。
「また一緒に暮らせる日がくるのは、やっぱり楽しみだもの」
(――――……っ)
 脳天から氷水をかけられたような、言葉にならない衝撃が全身を駆け抜けた。爪先が音もなく、地面から剥がれる。
 ルエルは自分でも無意識のうちに、その場を逃げ出して、回廊を来たほうへ戻っていた。あれほど動かなかった体は、今は嘘のように疾走している。
 ――また一緒に。
 鼓膜の奥に明るい声が甦って、息を切らして部屋へ飛び込んだルエルの目の前を銀色に染めた。
 酸素が欠乏して、心臓がどくどくと早鐘を打っている。屋根を叩くのは激しい雨の音だ。二人が立っていた中庭を見ることもせず、窓にカーテンを引き、ルエルはベッドに突っ伏してクッションに顔を埋めた。
 あれは一体、なんだったのだろう。
「……」
 靴を脱ぐことすら忘れていたのに気づいて、足首にのろのろと手を伸ばす。なんだったのか、など、考えれば考えるほど一つしか思い浮かばない。
 彼女は以前、ここに暮らしていたのだ。宮女としてではなく、この王宮で、ジャクラと生活を共にしていた。
 赤の他人で、一緒に暮らして、あんなふうに対等な口を利ける立場など、一つしかないではないか。
「……っう」
 彼女はジャクラに、想われている人なのだろう。はっきりとそう意識した途端、込み上げた熱い塊を、ルエルは咄嗟に息を止めて飲み下した。おかしな話ではない。ジャクラは彼女を愛していながらも、煌野の皇子≠ナある自身の体質からシュルークを守るために、ルエルとの結婚を決意したのだ。
 教えてくれなかったのは、大切な人はすでにいるなどと言ったら、ルエルを含めニフタの側がこの話を断ると思ったからだろうか。
 ことは順調に運んでいる、というふうなことを彼は言っていた。結婚の話が、うまく進みそうだという意味だろうか。そうしてすべての手間が片付いたら、本当の恋人である彼女を呼び戻すのだろうか?
 そうなったら、自分はどうなるのだろうか。
 そうなったらジャクラはあの人に語りかけ、あの人に微笑み、あの人と中庭を歩くのだろうか。
 真っ先に心配すべきなのは自分の行く末であるはずなのに、ルエルの胸により深く突き刺さったのは、後者の想像だった。見せかけの正妃となることの虚しさや、雨呼びの力だけを必要とされて残される恐怖などより、ずっと強く。
 今、自分が当たり前に立っているジャクラの隣が、誰かのものになるのだという可能性が痛かった。
 クッションを抱いて寝転んだ背中に、近づいてくる靴音と、ドアの開く音が聞こえる。
「あら、ルエル様! お戻りでいらっしゃったのですか。ノックもせずに失礼を……」
 入ってきたのは、サルマだった。彼女だと分かっていたから入れたのだが、今は顔を見られたくない。いつもなら心が明るくなるはずの朗らかな声に、疑念を抱いてしまう。
 サルマも、あの人の存在を知っていたのではないかと。中庭で話していた二人の様子は、決して隠れて逢瀬を重ねてきた仲というのではなく、公然と暮らしていたようだった。みな知っていて、ルエルには黙っているのではないのか。ルエルだけが知らずに、見せられたものだけを信じていたのではないか。


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