9:氷の扉


 あのときのことに関しては、ジャクラが何も切り出さないので、ルエルもただ翌日に礼を述べただけに留めた。幸か不幸か、記憶は鮮明で、自分が言ったこともはっきりと覚えている。言葉以上の意味は何もなかったのだが、朝になって目を覚ましたとき、自分がどれほど裏を含みそうなことを口走ったのか気づいて、しばらく雨を降らせた。朝食の席でナフルに「今朝はどうしたの」と訊ねられたときの、心の動揺といったら、宴でザキルと話していたときなど比ではない。
 どうしたのか、なんて、分かっていれば苦労はしないのだ。
 酒に酔っていたとはいえ、あのとき口にしたことは嘘ではない。ジャクラの手を、瞳を、拒まなかったらどうなるのか――ルエルは先を知りたがった。
 それは無知が生む好奇心とは別の、もっと甘く、息苦しく、じくじくと熱のこもった興味だった。オアシスの水や無花果の実を知りたいと思うこととは、全く別の。
「どうした?」
「……あ、いえ」
「なんだよ、気になるだろう」
 じっと考え続けていたら、隣を歩くジャクラを見上げていたらしい。ルエルは首を振って、何でもないと突き放す代わりに、秘密ですと答えた。今はまだ、自分の中でも感情の整理が追いついていない。
 自分は、ジャクラが好きなのだろうか。
 少しだけ力を込めれば、それ以上に握り返してくれる手の、小さな窮屈を嫌だと思わないことが、好きだということならばそうかもしれない。
 考えつかないわけではないのだ。これが、恋というものなのではないかと。
 物心つく頃には感情を抑え込んでいて、兄や父、導師くらいしか異性のいない環境で育ってきたルエルは、恋というものを知らない。だから今、ジャクラとの間に横たわっている感情が、恋だと言えるのかは分からない。
 分からないが、彼とならこれからも、こうして一緒に過ごしていたいと思う。
 繰り返す自問自答の答えが定まる日は、遠くない気がした。それは喜びと幸福の予感に満ちて、ルエルは純粋に、その答えに手を伸ばそうとしていた。


 翌日、ルエルは一人、青いドレスに身を包んで藍の間の白い回廊を歩いていた。壁に描かれた彫刻の花に、午後の目映い光が注いでいる。
 午前の勉強の復習をして、先刻までサルマとお茶を楽しんでいた。彼女が仕事に戻る時間になったので切り上げたが、夕のジャクラとの待ち合わせまで、少し時間が空いた。
 本を読むには短く、ぼんやりと過ごすには長い。
 ルエルはこの王宮に来てから、そんな時間の多くをタペストリー室にあてている。青の間の外れにあって藍の間からは距離があるが、図書館へもよく足を運ぶのですっかり慣れてしまい、景色を見ながら歩いていればすぐだ。
 外部からの客がなく、一人で行ける場所というのも気軽でいい。立場を気にせず息を抜ける場所というのは、貴重なものだ。あまりに静かなので、階下の図書館で転寝をしてしまったこともある。開放された場所で気まぐれに眠るというこれまでにない体験に、目を覚ましてから一人で、冒険でもしてきたかのような気持ちになった。
 帰りに何か、本を借りていくのもいいかもしれない。
 外で広げると濡らしてしまうかもしれないから、どこか屋根の下で、たまには散歩の合間に読書などどうだろう。天文図鑑が所蔵されていた気がする。夕方だから星はまだないけれど、天文台にある観測室で、あれを見られたら楽しそうだ。
 ルエルは唇に仄かな笑みをのせて、中庭に繋がる角を曲がろうとした。そのときだった。普段あまりひとけのない中庭から、話し声が聞こえたのは。
(今の声……、ジャクラ?)
 聞き間違いとは思えなかった。これほど毎日、聞いていれば分かる。内容までは聞こえなかったが、ジャクラの声だ。
(まだ、公務の時間ではないの?)
 青の間にいるはずの人の声が、思わぬところで聞こえたことに驚く。公務の時間は基本的に、よほどのことでない限り、藍の間で顔を合わせることはない。私用で戻ってきたのだろうか。何かあったのか、と足早に角を曲がったルエルは、太い柱を越えて中庭に目を向けた。
 そうして、思いがけない光景にその足を止めた。
(……誰?)
 藍色の目を瞬かせて、じっと見ても分からない。ジャクラの前に立っていたのは、ナフルでもなく占師でもなく、ルエルの知らない女性だった。仕事の時間ということも手伝って、話の相手は大臣の誰かだとばかり思っていたので、呆気に取られてしまう。
 一度止めてしまった足は不思議に重くなって動かず、ルエルはその場に張りついたように、二人の横顔を見つめた。
「……で、……順調に運んでいると思う。多分、このまま……」
 ジャクラの声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「そう、それなら良かったわ。あなたにとっても、……だし、この国にとっても……で、最善だと……」
 相手の女性の声も、さっきよりはっきりと聞こえた。
 いけないことだと悟りながらも、ルエルはその場を離れることができなかった。立ち聞きなど、決して良いことではない。
 かといって今のルエルは、まだ正式にジャクラの妻というわけではなく、極めて微妙な立場にある。出て行って誰彼構わず挨拶をするのは、避けたほうがいいだろう。今は早々に去って、あの人は誰と、後で教えてもらうのが一番だ。


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