3:雨憑姫≠ニ煌野の皇子


 緊張の度合いでいえば、むしろ皇帝、皇妃との顔合わせなど、ニフタで覚えていた緊張とは比べ物にならない大きさだったのだが。
「そうだな、あまりうまく釣り合っていない。というより、まだ晴れの力のほうが強いんだろう」
 ジャクラは頷いて、柱に背中を預けた。太陽が中庭の芝生を満たし、嵩を増す水のように、歩廊の上まで流れ込む。巨大な柱の作りだす日陰に、ルエルも入った。
「砂漠の向こうからやってきたあなたがこの国をどう感じるか、俺も少なからず緊張している。先の宴席でも珍しいほど食わないと、母上と大臣にからかわれたくらいだ」
 そうだったのかと、相槌のように浅く頷く。宴の席では皆、ルエルに話しかけるときは口調を遅く、聞きやすいように気を遣ってくれたが、個々に話すときは普段の調子で話すので、全部が聞き取れていたわけではない。
 加えて、見慣れない料理をどう切って食べるべきかなど、考えることが色々とあった。途中からはあまり、大臣たちの話し声まで耳を向けてはいなかった。
「だが、そうして誰かと話し、笑ったり怒ったりしている分、俺の感情の起伏のほうが大きくて分かりやすい。雨が降らないのは、晴れの力に圧されているからだろう。あなたがもっと感情を見せてくれれば、変化があるんじゃないかと思うが――」
 ふと、ジャクラが視線を向けた。逡巡するような一瞬の眼差しに、彼の考えていることを察する。
「宴席は、あなたには退屈だったか? 笑っているところを、一度も見なかった」
 予想通りの質問が、投げかけられる。ルエルは首を横に振って、彼を見上げた。
「いいえ、違うのです。退屈だったから、というわけではなくて」
 宴の料理は美味しかった。見たことのない彩りの皿は新鮮だったし、小さなグラスも、飲まなかった石榴酒も、水を注ぐ宮女の仕草や大臣たちの服装も、楽しくなかったとは思っていない。
 ただ、分からないのだ。
「笑う、ということが、どういうものなのか分からなくて」
「え?」
「昔からの、習慣といったらいいのでしょうか。ニフタで私は、あの国を雨に沈めてしまわないよう、感情を抑制するように暮らしてきました。幼少のころより導師に、心静かに過ごすことを教えられ、私自身もそれに従うことが最善だと思って生きてきたのです」
 ルエルは淡々と、打ち明けるように続けた。
「そのせいか、自分の感情を認識して、態度に表すということが……いいと言われても、どうやら上手くできないようです。笑ったり怒ったり……、最後にしたのはいつだったか、あまり覚えてもおりません」
 退屈だったかと言われると、そんなことはなかった。きっと先ほどの宴を、自分は楽しんでいたのだと思う。振り返って考えればそう分かるのだが、それをあの場で、笑顔として表現することはできなかった。
 ルエルの中の感情を抑える扉は、固く閉ざされて、すでに錆びかかっている。
「なるほどな、ニフタではそういう方法で国を守っていたのか」
「はい。ご期待に副えず」
「いや、勝手に期待をしたのはこちらだ。しかし、そうだな……そういうことなら……」
 ジャクラは腕を組んで、考え込み始めた。伏せた目の上、眉間に皺を寄せて真剣に悩んでいる。謝ろうとした言葉は遮られ、ルエルはただ、沈黙して彼を見上げている。
 感情の起伏をなくして、雨は降らない。宴の席でも、もっと言えば昨日の出迎えの場でも思ったが、ジャクラは表情豊かな人だ。顔だけでなく、態度や声にも喜怒哀楽が分かりやすく滲む。日招きの力を持つ人がこれだけ明朗であれば、シュルークの空の、底なしの青さにも納得がいく。
 この人の持つ晴れの力に拮抗するほどの感情の幅が、自分にあるだろうか。そう考えると、ルエルはやはり今一度、目の前の青年に頭を下げて、ニフタへ帰るしかないように思えるのだった。
「一つ、訊ねたいことがある」
「はい、何なりと」
 長い沈黙に、声をかけるべきか迷い始めたころ、ジャクラが口を開いた。今後に関わる大切な話だ。どんな問いにも、分かる限りは答えるつもりで、ルエルは頷く。
 だが、かけられた質問は、ルエルの心の構えとはやや違った方向のものだった。
「今、歩いてきてみて、この宮殿はどう思った?」
「どう、とは?」
「好みか、好みではないか、くらいの質問だ。難しく考えなくていい」
 建築の立派さや装飾について訊かれているのかと思ったが、そういうことではないらしい。漠然とした、簡単な質問だ。ルエルは辺りを見回しつつ、辿ってきた道の風景を思い返した。
「好き、だと思います」
「そうか、それなら良かった。食事も、特に合わないということはなさそうだったな?」
「はい」
 壁を彩るタイルや、白一色で彫刻が削り出された柱など、印象に残ったものを思うと静かな胸がかすかに踊る。気に入りの本を読むとき、兄が頭を撫でてくれるとき、甘いお菓子を頬張るとき、今とよく似た感覚を覚えた。


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