3:雨憑姫≠ニ煌野の皇子


 宮殿の案内。なるほど確かに、しておいてもらったほうがよさそうだ。だがこれといってそんな話を事前にしたわけでもなかったし、まさか彼が、自ら案内役をかって出るとは思いもよらなかった。そういう仕事は、宮女か誰かがしてくれるのではないのだろうか。
「まあ、それは良い考えね。せっかくの機会ですもの、まだお互いに挨拶くらいしかできていないでしょう? 散歩がてら、色々と話して、教えてあげたら良いのではないかしら」
 ナフルが楽しげに賛同する。構わないのだろうか、とルエルが迷っているうちに、チャイの注がれたカップが置かれ、ジャクラが返事をしてしまった。
「夕の宴席には戻ります」
「そうか。では、飲んだら行くといい」
 フォルスが退席の許可を示す。各々のグラスが持ち上げられて、ルエルもそれに倣った。
 石榴酒とチャイを捧げあうだけの、厳かで短い乾杯が交わされた。

 タイルの青色が、門を境に一段薄くなっている。
 席を離れ、ジャクラに連れられて白い歩廊をどれくらい歩いただろう。遠く聞こえていた宴の賑わいもすでに聞こえなくなり、日の差す芝生が瑞々しい中庭に出た。先ほどまでいた宴の庭は、宮殿のほぼ最奥に当たるらしい。今はそこから、宮殿を回るように歩き、門を一つくぐって、新たな中庭に来ている。開放的な日の下に、小さなテーブルと椅子が数脚並び、大きな無花果の木が立っていた。
 青の間――この辺りのことを、そう呼ぶのだそうだ。玄関口である白の間と、皇族の私邸である藍の間のあいだに位置する、宮殿に仕える大臣と人々の、執務のための場所。
 その大臣たちも今は皆、宴に出向いている。時々、揃いの衣服に身を包んだ使用人とすれ違うこと以外には、至って静かな場所と化していた。
「大臣たちも、本当に気が早い。色々と声をかけられて、疲れただろう」
 悪気はない者たちなんだ、と、斜め前を歩いていたジャクラが言う。まるで代わりに詫びるような口調だ。
「いえ、お気になさらず。私は、大丈夫ですので」
 彼の言う「色々と」の意味するところを察して、ルエルは無花果の木を眺めたまま否定した。宴席では口々に、祝いの言葉をかけられた。内容はもちろん、ジャクラとの婚約について。
 しかしながら、実情を打ち明けるとすれば、この婚約は一種の猶予なのだ。ルエルとジャクラが式を挙げるのは、これから三ヶ月後。今は入籍もまだしておらず、ルエルは名前も変わっていない。
 そんな状態で何をしにシュルークへ来たかと問われれば、一言でいえば、長いお見合いである。
 仮にも一国の皇子と王女が、結婚を決めるにあたって、気が合うかどうかを確かめたいのでしばらく一緒に暮らしてみようと思います、とは公に言えない。そのため、婚約をしたという形でルエルを宮殿に招き入れ、式の準備という名目で三ヶ月を設けた。
 大臣たちも、それくらいは分かっている。三ヶ月後、本当に二人が結婚するかどうかは、まだ分からないということも。
 分かっているが、幼い頃から傍で見守ってきた、自国の皇子に縁談が持ち上がったことが誇らしいのだろう。彼らの過大な祝福はそういう、暗黙の了解を十分に踏まえた上でのものだ。宴席らしい、内輪の遊びとも呼べる。
「まあ、それだけ皆、あなたの到着を心待ちにしていたということだ。ルエル王女」
 話をまとめるように言って、ジャクラは足を止めた。金の髪留めが揺れて、四方に光を放つ。自然、ルエルも足を止めたが、その言葉にはなんと答えるべきか迷った。
 中庭に、目映いばかりの日が降り注いでいる。
「皆、期待しているんだ。雨憑姫≠フ名を持つあなたに」
「ジャクラ様……」
「無論、俺もだが……いや、そうじゃないな。本当は、大臣たちを全員集めたよりも、俺のほうが」
 ジャクラはそこまで言いかけて、苦笑で言葉を切った。ニフタからここに来るまで歩いてきた砂漠のような、そしてそこに落ちる影と、天頂に輝いていた太陽のような、肌と髪と目。
 ――煌野(こうや)の皇子=B
 草も育たない荒れ野と、その上で唯一絶対のように照りつける太陽の煌めきを揶揄して、この国の者かはたまた余所の者か、いつからか誰かが広めたという彼の呼び名を思い出す。口にこそ出さなかったが、どこにでも否定のできない通称を思いつく人がいるものだと、ルエルは思った。
 ジャクラは、日招きの力に巣食われた人だ。雨呼びと対を成すように、彼の感情の起伏は、空に太陽を輝かせる。
 ルエルと同じく、幼少の頃より力の発現はあったといい、彼が生まれてからというもの、シュルークの天候は日照り続きだ。砂漠があったのはそれより昔からだが、近年、力を増す太陽によって、点在していた小さな水場がいくつか消失した。それは事実らしい。
 慢性的な水不足の危機を逃れるため、ジャクラは毎月、薬によって一週間ほど眠らされる。シュルークはその一週間に降る雨を、切実に頼りとしている状態なのだ。
「私の力は確かに、ジャクラ様の、ひいてはシュルーク帝国のお役に立つものでしょう。しかし……」
 雨呼びの力を持つルエルを同じ土地に置けば、状態は緩和されるに違いない。此度の縁談はそういった、政治的な契約とは少し違う事情から生まれた話だった。求められているのは外交ではなく、この地に水をもたらすこと。
 だが、今ここから見えるシュルークの空は、青々と晴れている。
「力が、うまく釣り合っていないのでしょうか。シュルーク領に足を踏み入れてからというもの、その……」
 雨が降らない。
 ルエルは躊躇いがちに、昨日から気にかかっていたことを口にした。ニフタを出るまでは、緊張から感情の制御がおろそかになって、雨を降らせていたはずなのに。砂漠でシュルークの国境を越えてからというもの、雨呼びの体質など嘘のように、雲一つない空を見ている。


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