27 使命


 月日は風の匂いを染めながら流れて、ユーティアに六十三歳の春が訪れた。コートドールの路地はほのかな水辺の潤いと、木々の緑、春の日差しの白さが入り混じって、暖かな日が続いている。
 迷い込んできた蝶がブルーベリーの木の根元で休むのを横目に見ながら、ユーティアはスカートをたくし上げ、土に片膝をついてイチゴを摘んでいた。甘い香りが、一粒摘み取るたびに爪の先から跳ね上がる。
 植えたばかりのトマトの場所を示す手製のピックが、一本倒れていた。昨夜の雨が土を柔らかくしたのだろうか。よいしょ、と屈み、腕を伸ばして立て直してやる。毎年、トマトはよく実って、イチゴがなくなったあとの夏の食卓を彩り豊かにしてくれる。
 セロリやハツカダイコンの並んだ菜園の様子を眺め、ユーティアは満足げに、かごを抱えて立ち上がった。エプロンから緑の葉が、数枚はらはらと足元に落ちる。ブルーベリーの根元にいた蝶は、いつのまにかいなくなっていた。蛇口を捻ると、かすかに温い水が溢れてくる。かごごと水にくぐらせて、イチゴを洗う。
 節の出た指が水を絡めて行き来するたび、木と果実の良い香りが辺りに満ちた。拭き取るものを持ってくるのを忘れてしまったと気づき、軽く払って、水滴を零しながら歩いていく。開け放したままのドアをくぐり、爪先で石をどけると、ドアはユーティアの背中を追うように軋んだ音を立てて閉まった。キッチンにイチゴを置いて、店のほうへと歩く。
 棚に並べたオイルと蜂蜜の瓶を確認して、ラベルの一番古いものを取り、日に透かした。ローズマリーは時間を止められたように、細い瓶の中で立ったまま眠っている。オイルはそろそろ使ったほうがいい。蜂蜜もちょうど切らしてしまった。今日の昼食から開けようか、とラベルをはがしつつ、キッチンへ戻る足元に日溜りが落ちている。
 色素の褪せた淡い金の髪を煌めかせて、ユーティアはゆっくりと、ガラスのポットでお茶を淹れた。今日の収穫は上々だ。おかげで少し、疲れている。
 時計を見ればベレットが来る約束の時間まで、もう少し余裕があった。彼女が来る前に、昼食を作るつもりだ。このお茶を飲んで、一息ついたら始めようとカップを傾け、温かなため息をこぼす。
 ソーサーに描かれたラベンダーの柄が、瞬く目の中で緩やかに滲んだ。

 ざあざあという水の流れる音、蛇口を捻られて、それがきゅっと消える音。続く誰かの鼻歌で、ユーティアは目を覚ました。
「ベレット……?」
 霞んだ視界の中に、黒い背中が佇んでいる。姿勢がいいわ、とぼんやり思った。キッチンに向かっていた彼女が、くるりと振り返る。
「あら、起きた?」
「ええ。私、眠っていたの?」
「そうよ、来てみたら鍵もかけずに眠ってるんだもの、びっくりしちゃった。ま、何にもなかったみたいだしいいけど」
 不用心よ、とたしなめるように言って、ベレットはまた背中を向ける。腕の間から、ナイフとパンが見えた。時計を見れば、約束のお昼をちょうど過ぎたところだ。
「ごめんなさい、ほんの少し休むつもりだったんだけど」
「私はいいわよ、別に。でも、座ったままうとうとなんて、なんかあんたらしくないわねえ。疲れてるんじゃない?」
 そうね、と返しながら、隣にいって覗き込む。彼女は二人前のサンドイッチを作っているところだった。玉子を挟むかと訊ねると、顔を輝かせる。ユーティアはフライパンを用意して、新しいオイルを開け、スクランブルエッグを作り始めた。
「春は畑が忙しくて。昔は何でもなかったのだけれど」
 言いながら、玉子をかき混ぜていく。
 ベレットは「らしくない」と言ったが、実のところ、ここ最近似たようなことが度々ある。椅子で一息つくつもりがふと転寝をしてしまったり、日記をつけながら窓の外を眺めていて、気がついたら朝日が昇っていたり。
 自分でも呆れるくらい、ふとした拍子に眠ってしまうのだ。サロワで母が昔、同じようなことをぼやいていたと思い出す。あれは確か、六十を過ぎて、ちょうど今の自分と同じくらいの年齢に差しかかった頃ではなかったか。
「情けないこと言って」
 ようは、歳を取ったのかもしれない。ふふ、と笑ったユーティアにベレットは唇を尖らせて、熱い玉子をレタスの間に挟んだ。パンを閉じると、サンドイッチのできあがりだ。彼女が一人でも面倒くさがらずに作れる料理の、わりと上のほうにあるレシピ。
 少し待ってもらってスープを火にかけ、お茶を淹れて、ユーティアも食卓についた。銀のスプーンが質素な食事の前に、日の光を溜めて横たわっている。
「そんなんじゃ、サロワのお嫁さんに示しがつかないわよ」
 いただきます、と挨拶を挟んで、ベレットは先の会話を続けた。熱いお茶で一口、喉を潤して、ユーティアは苦笑する。
「示しって。別にそんなものなくていいでしょう、私、お姑さんってわけでもないんだから」
「似たようなものじゃない?」
「そんなことないわよ。舅がたくさんいるから、きっと十分でしょ」
 サンドイッチを頬張りながら、ベレットは笑って、それには同意した。彼女が言うのは、サロワにいる新たな家族のことだ。三年前、ティムが結婚した女性。


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