11 母の来訪


 カップをテーブルに下ろした母が、深く頷く。
「そうね、もちろんよ。それが女の人の幸せだもの」
「そう……」
「と、昔の私だったら答えていたと思うけれど」
 笑い交じりの声に、思わず顔を上げる。色素の抜けた髪の向こうで、窪んでもくっきりと大きな母の目が、柔らかく細められた。
「今のあなたを見ていると、それだけが幸せだと決めつけられていた時代は、終わったのかもしれないと思うの。だって、こうして立派に暮らしているようだし、何よりあなたは満たされているように見えるのだもの」
 そうじゃないかしら、と首を傾げられて、ユーティアは少し遅れながら首を縦に振った。母はいつものように笑って、スープ皿の底をスプーンで浚う。
 一瞬、微笑みを浮かべたまま屈んだ額に、何十年も前の面影が重なった。
 ほんのりと甘い、紅茶のシフォンケーキの焼ける匂いが漂ってきている。

 一ヶ月という時間は長いようであっという間に過ぎ、気がつけば母がサロワへ帰る日の朝がやってきていた。
 道中、昼食にしてほしいと作ったサンドイッチを持たせて、駅まで見送りに出る。ソリエスは一日休みにしてきたので、十一時の汽車で帰る母をホームまで送ることができた。
 母はコートドールへ来たときよりも、幾分か荷物を少なくしている。ユーティアに持ってきた土産がなくなった分だ。それでもわずかに背中の丸まった母の姿には、多すぎる荷物に思えた。帰りに渡そうと思っていた果実酒や蜂蜜は、後からサロワへ送ることにした。裏庭で実ったあの無花果のジャムも、忘れずに入れなくてはならない。
 ――ユーティア、毎年顔を見ていても、毎週声を聞いていても、いつもどこかであなたが無理をしたり、辛い思いを隠して笑ったりしているんじゃないかって思っていたけれど……
 帰り際、汽車のベルを聞きながら抱き合ったときに、母は耳元で言った。
 ――この町に来られて、本当に良かった。そんな心配、必要なかったんだって、この町で暮らすあなたを見て確かに分かったから。
 ユーティアの肩を押して汽車に乗り込み、またねと笑った。あっと声を上げる間もなく、汽車のドアが閉まって、ベルが一際高く鳴り響いた。窓の向こうで母は手を振っていた。少女のようなその仕草に、ユーティアも思わず手を大きく振って、汽車が遠く見えなくなるまでその背中を見送った。
 ホームに汽車が去った後の、がらんとした静けさが訪れる。
 ユーティアは何となく、駅の周りで買い物をして回った。そろそろやってくる新しい年に向けて、雑貨屋で日記帳を買う。コートドールはお洒落な日記帳を扱っている店が多くて、毎年どこで買おうか迷ってしまうくらいだ。今年は露草の花のような、鮮やかな蒼の表紙に目が留まった。
 インクにペン、詩集にリボンと、久しぶりにゆっくりと買い物を楽しむうち、ユーティアの足は市場へ向かっていた。昨夜は母との最後の夕食だからと力が入ってしまって、食材のほとんどを使い果たしてしまったことを思い出す。いつになく豪華な夕食だった。たまにはテーブルに乗りきらないくらいのディナーというのも、楽しいものだ。
 野菜や牛乳を買い足して市場を一周したが、ベレットはいなかった。今日は休みのようだ。彼女のいつも使っているワゴンには紺色のストライプの布がかけられていて、脇に立った黒板に「魔女の薬屋:本日休業」と書かれていた。「ご用の方は伝言をどうぞ」とも書かれており、下に数件の注文が書き込まれている。ベレットらしい、気の利いたやり方だ。
 ユーティアは少し考えてから、ブーツを鳴らして再び大通りを歩き出した。正面に城の正門が見えている。カフェオレ色の煉瓦を組み上げて作った城の、両側に聳える塔の屋根から鳩が飛び立った。

 静寂にパチパチと、薪の燃える音が響く。
 公園として開放されている城の前庭を一周して、ベンチで買ったばかりの詩集を半分ほど読んで帰ると、家に着くころにはすっかり日が落ちて暗くなっていた。洗濯物を取り込み、買ってきたものを片づける。そうしてさて、と一息ついて、ユーティアは夕食の前にもう少し本を読むことにした。
 ユーティアが席に座ってしまうと、辺りは途端に眠ったように静かになった。このところ母が共に暮らしていたせいか、一人でいる静けさが妙な心地だ。物音がなさすぎて、かえって読書に身が入らない。
 たったの一ヶ月だったのに、家族というのは何年離れていても、傍にいるとあっという間に馴染んでしまうものだ。


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