11 母の来訪


 しみじみと感じて、ユーティアはわずかに目を細めた。寂しい、という気持ちとは少し違っていた。寂しさよりも、ユーティアに残ったのは嬉しさだった。コートドールのこの家にも、サロワと同じ、母と暮らした記憶が作られた。見た目には何も変化していないのに、空気が変わって、今は古く空き家となったあの生家の気配が漂っている。
 父と母、三人で暮らした故郷の匂いが、母の背中に乗ってこの家へ運ばれてきたような、そんな感じがした。今夜からは例え一人でも、その空気の中で生きていくことができるのだ。じんわりと、胸が温かいもので満ちる。
 数ページで閉じてしまった詩集を置いて、夕食の支度をしようと席を立つ。そのとき、店のドアがこつんと控えめにノックされた。
「あら」
 見れば、ガラス越しにベレットが店を覗いている。リビングのドアを開けて駆け寄ると、ユーティアに気づいて帽子を取った。
「いらっしゃい。お休みだったのに、わざわざ遊びにきてくれたの?」
「え、なんで知ってるのよ」
「今日、市場に寄ったんだけれど、あなたいなかったから……ああごめん、上がって」
 思いがけない来客に、玄関先で話し込みそうになって、ユーティアは慌てて彼女を中へ招いた。
 ベレットは冬、市場の仕事が休みだと、一日中アパートの中で寝ていたいといって毛布に包まっている。彼女は、極端に寒さが嫌いなのだ。いつもは暇に飽かして何かと遊びにくるくせに、この季節になると毎年、呼び出しても出てこない。
 あまりの珍しさに「どうしたの」と訊ねれば、深いブルーの双眸が夜の水面のようにさまよった。
「今日、休みだったから、ついごろごろ寝ちゃって」
「うん」
「いつの間にか、こんな時間だし。一人で夕飯作るのが面倒くさかったから、家にあった材料もって来てみただけよ。本当に、それだけなんだから。いつものことじゃない」
 早口にそう言って、ベーコンと卵の入ったかごを押しつけてリビングへ入っていったベレットの背中を見つめ、ユーティアは思わず声をころして笑った。家にあった材料。彼女はそう言ったが、ベーコンの包装にはしっかり、今日の日づけが記されている。卵だって同じだ。今日の朝採れた新鮮な卵だと、保証するスタンプが押されている。
 この寒い中、市場まで買いに行ったのだろうか。億劫な支度を、一人でやりたくないがために。料理の嫌いな彼女一人では作れない夕食を、この家で食べるために。そんな、ささやかな嘘をついて、母が帰ったばかりの自分を気遣ってくれるために。
「あなた、人のこと言えないと思う」
「何?」
「なんでも」
 お人好しと昔、彼女に言われた。分かっているなら強引に要求を通そうとするのをやめてもらいたいと、呆れたからよく覚えている。
 ユーティアはくすくすと笑いながら、卵とベーコンの包装を破いて捨てた。何が食べたい、と訊くと、カリカリに薄く焼いたベーコンとオムレツというリクエストが返ってくる。チーズと麦を入れたスープを作ろうと思っていたから、ちょうどいいかもしれない。
 フライパンを温めてくれるように頼みながら、ベーコンにナイフを入れる。母が泊まりにきている間はやはり遠慮があったのか、ベレットは二、三回しか夕食に来なかった。こうして並んで、彼女と料理をするのは久しぶりだ。勝手を知り尽くしたキッチンの棚から、半円に切ったチーズが取り出される。
 寂しいと思っていたつもりはなかったのに、傍に立ってもらうと唇の綻んでいる自分がいた。ユーティアは心の中で礼を言って、来週の週末には、母と電話で今日のことを話そうと決めた。


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