11 母の来訪


 土の下に眠る煌めきのように、その喜びは見えにくいものだ。景色や風の匂い、音や味となって五感に触れるが、あまりにささやかで見逃してしまうこともしょっちゅうある。けれど、十五年という歳月をひたすらに暮らしてきて、眸はだんだんとその煌めきを見つけることに慣れてきた。
 私の日々は眩しい。今では、迷いなくそう言うことができる。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「メアリー先生って、覚えている?」
 幸福について考えるとき、いつも記憶に甦る人の姿を思い出して、ユーティアは自然に唇を綻ばせた。ソリエスを開店して間もない頃に一度来てくれてから、メアリーと会ったことはない。だからその記憶は、彼女が今のユーティアよりも若かりし日の姿で止まったままなのだが、今でもよく覚えている。
「もちろんよ。というか、夏に見かけたの」
「え、本当に?」
「ええ、話はしなかったけれど。梢の向こうで、駅に続く道を歩いていたのよ。多分、先生でいらっしゃったと思うわ」
 思いがけない母の返答に、ユーティアは嬉しくなってそのときの様子を訊ねた。毎年、サロワへ里帰りするが、小さな村といっても偶然に顔を合わせることはなかなかない。メアリーが結婚して教師を辞め、今どこに住んでいるのか分からないこともあって、ふと会いたいと思うことはあっても本当に会いに行くことはかなわずにいた。
「黄色の、長いワンピースを着てね。つばの広い帽子を被っていたけれど、横顔はあまり変わっていなかったわ。挨拶をしようかと思ったんだけれど、お子さんが何か、一生懸命に話しかけていたから」
「子供? 先生、子供を連れていたの?」
「ええ、男の子を二人。二人とも結構大きかったけれど、どこか出かけるところだったのかしらね。旦那さまも一緒で、お元気そうだったわよ。晩婚だって聞いていたけれど、もともと子供がお好きだったじゃない? 家族に恵まれて良かったわよね」
 頭の中に、サロワの目映い夏の日差しが降り注いだ。立ち並ぶ木々の茂った葉を透かしながら、腕や足に落ちてくる細かな光。乾燥した幹の間から見える、一本の白い道。サロワで一番広いその道は、白い砂利でわずかに舗装がされた、太陽の光を万遍なく跳ね返す眩しい道だ。
 三人の家族に囲まれたメアリーの姿が、そこに自然と描き出される。母の目を通して見たその景色は、ユーティアに心からの祝福をもたらさせた。遠く離れたサロワで、今も彼女が幸せでいるのだという事実が、自らのことのように嬉しかった。おめでとうなどという言葉では足りない。もっともっと、ただとても、喜ばしい。
 ――幸せになりなさいね。
 コートドールへ来て間もなかった自分に、メアリーが置いていってくれた言葉を思い返す。あれから、何度となく思い出しては、忘れないようにと大切にし続けてきた言葉。
 幸せになる、ということは、何であろうか。ユーティアの結論は、幸福である努力を怠らないことだった。生まれ持った使命や環境に振り回されて、ないものねだりをしたり、重たい荷物ばかりを見つめたりして毎日を暮らすのではなく、手の届く範囲で小さな幸福をたくさん育てる。
 やがてはそれが芽吹き、花を咲かせる。花が咲いたあとには種が落ちて、その種がまた芽を出し、花を咲かせる。そんなふうにして幸福は、いつの間にか身を囲むほどに広がっていく。小さな幸福も、絡み合って育てば大樹のごとく根を張っていくのだ。
 ユーティアにとって小さな幸せを感じる瞬間は、日々の収穫や食事、店での仕事やベレットとの付き合いなど、生活のすべてに渡って存在している。それらが積み重なって、パイのように薄く幾重にも層を成している。その頂上に、いつも今このときがある。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「私に、結婚してほしかった?」
 それに気づくことができたのは、間違いなく、メアリーの言葉があったおかげだ。メアリーの言葉のおかげで、ユーティアは幸せに生きるということを意識するようになった。時に悩まされ、時に深く考えさせられた言葉でもあったが、結果としてその意識は、コートドールでの長い生活を支えてくれる柱になったのだ。
 グリモアという手放せない使命のある人生だが、楽しむことを知った。自由はどこにいてもあることに気づいた。喜びは手の届く場所に溢れていることを学んだ。


- 45 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -