11 母の来訪


 十五年ぶりに見た裏庭はずいぶんと気に入ってくれたようで、まあまあと何度も感嘆の声を上げていた。無花果の木が今も元気で育っているのを目にして、無花果園を思い出したのか父を思い出したのか、懐かしそうに細めた目で少しだけ泣いた。その木があったからかそういうわけでもなくか、毎日の水遣りだけは自分がやりたいというので頼んである。
 裏庭にいる母はよく、鼻歌を歌った。サロワの無花果園で、木々の間から時々こぼれていたメロディーだ。暖炉の暖かな空気が抜け出すのも構わず、ユーティアはドアを細く開けてある。ドアの隙間からキッチンに母の声が聞こえてくると、サロワで暮らしていた日々がそのままここへ移ってきたような、そんな懐かしさが込み上げた。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
 フォークを手に取って、玉葱をたくさん入れたハンバーグにナイフを立てる。ソリエスへやってきて、ちょうど一週間。今夜は母が、久しぶりに料理を作ってくれた。
 サロワにいた頃、母が得意だったハンバーグを、ユーティアが同じような味で作れるようになったのは最近だ。ロメイユで下宿を始めた頃に何度か作ったが、どうしても上手くいかず、一味も二味も足りない気がしていた。
 母の料理は薄味で、サロワで手に入る簡単な調味料しか使われていない。それなのに、きちんと満たされた味がするのが不思議だ。ユーティアは今でも、自分の料理は母の背中を追いかけ続けていると思っている。振る舞えばほとんどの人が「上手ね」と褒めてくれる腕前になっても、大概のものが満足のいく出来で作れるようになっても。
 そう言うと母はいつも「光栄ね」と笑うのだ。作り方に秘密が隠されているわけではないから、今のユーティアに教えるようなことはもう残っていない。ユーティアもそれは分かっている。けれど一年ぶりに食べたハンバーグは、やはりどこか追いつくことのできない味がして、正面に座った母を見ながらユーティアは素直に美味しいと微笑んだ。
「そう? 光栄ね」
 一年前の里帰りでハンバーグを食べたときと、同じ響き、同じ言葉。けれどそれを言った唇や、朗らかに弧を描いた目元は少し歳を取ったな、と思う。一年に一度しか顔を見る機会がないからこそ、変化に気がつくことができる。ゆっくり動く雲はいつの間にか見えなくなっているが、忙しなく飛んでいく鳥は目につきやすい。そんな感じだ。
 ユーティアにとっては何歳になっても母親だが、世間にはそろそろ、おばあさんと呼ばれる年齢に差しかかってくる。すっかり白髪の割合が多くなった髪と、カーディガンを着込んだ肩の丸さを眺めて、ぼんやりとそう思った。事実、母と三つしか違わないマルタには二人の孫がいる。元気でマルタの幼い頃に似たよく喋る女の子と、内気な男の子――こちらも顔立ちは自分に似ている気がすると、マルタは何度となく言っている。
 老いた母の節くれ立った手が、白いスープ皿に額縁のように添えられるのを見つめながら、ユーティアは温くなったハーブティーに口をつけた。
 自分は結婚もしなかったし、子供も持たなかった。そのことに後悔はないのだが、母の腕に孫を抱かせてあげたかったと思うことは度々ある。マルタを見ていると、特にそうだ。祖母になる前も快活で幸福そうな人だったが、今はなおさら、毎日が楽しくてしかたないといった様子に見える。
 母がソリエスに来てすぐ、二人は顔を合わせた。並んで話す二人を見ながら、ふと思ったのだ。自分がこうして独身のまま、淡々とこの店で暮らしていることは、母の目にどう映っているのだろうかと。
 虚しくみえるだろうか。それとも、それもあなたの人生よといつもの顔で笑ってくれるだろうか。サロワにいれば他の少女たちと同じように、当たり前にしたのであろう結婚をしなかったことは、ユーティアにとってほんの少し母に後ろめたいことだ。
「食べないの?」
「え?」
「冷めちゃうわよ。ぼうっとして、何か考えごと?」
 ただ、それは母に後ろめたい、というだけで。自分自身が今、幸福かそうでないかと訊かれたら、間違いなく幸福だと胸を張って言える。
 食べかけのハンバーグを指されて、慌てて「何でもない」と口に運びながら、ユーティアは暗に、自分は昔、人生への期待値が低かったのだということに気がついていた。
 今の生活はとてもささやかなものだ。朝、太陽が昇るのと共に起きて、庭仕事をする。作り慣れたメニューで食事をして、品物を並べて、薬を作る。そうして毎晩、窓の向こうに広がる町を眺めながら日記をつけて、月が天頂を跨ぐころに眠る。その繰り返しである。
 代わり映えなど何もない、何年経っても同じような生活だ。けれどユーティアはそんな日々に、サロワにいた学生の頃に思い描いていたよりも、実はずっと幸せを感じていた。
 あのころ、想像した未来の自分は、こんなに満たされてはいなかった。静かに、町の喧騒に隠れるように暮らしていて、感情の起伏も少なく、小さな店と共に老いていく。そんなものだと思っていた。それが現実はどうだろう。確かに日々は慎ましやかだが、毎日は小さな喜びに溢れている。季節は巡り、空模様は移ろい、草木は芽吹いて、この体は生き続ける。朝、目覚めてから眠りに落ちるまで、一瞬として同じときはない。
 温かなスープに、磨いたスプーンを入れる。薄く張った氷を、冷えた指の先で割る。すべての瞬間はそんなふうに、今このときにしかないものたちが偶然に触れ合って生まれている。人生に、静かな瞬間などない。どんなに淡々と日々を送っていても、生きている限り、世界が持っている偶然の触れ合いから離れることはできない。


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