21 夜に追われて


「戦地は壊滅状態だ。アルシエ軍はもちろん、他の三国も現時点で、セリンデンに対抗できるような飛行手段はねえ。兵士はパニック状態で散り散りにされちまって、戻らないのも多いそうだ」
 この後ろめたい安堵を顔に出すまいと、壁にもたれて俯いていたユーティアには、ティムが話を戦場のことに切り替えたのはありがたかった。顔を上げ、躊躇うティムに続きを促す。
「薬草魔女のテントは森の奥にあったが、薬を作っているせいで湯気が立っていた。上空からは、それが目印になったんだろう。……死亡者がはっきり分かったのは、魔女たちは少人数でチームを組んで仕事に当たっていたからだ。負傷兵に関しては、ほとんど情報はない」
「そう……」
「近隣の町もだいぶ、被害を受けている。その辺りも最早、何がなんだかで……今夜は兵士寮に戻っている奴なんて一人もいねえよ。みんな会議だ。窓から明かりが見える」
 ユーティアは反射的に独房の壁を見上げたが、くり抜かれた窓からは、暗い夜空が見えるだけだった。
「東はもはや絶望的だな。城壁なんて、空から攻められたんじゃなんの役にも立たない。槍と鉄砲で戦える時代は、もう終わったんだ」
 レドモンドはまるで他人事のように、階段に腰を下ろして呟いた。ランタンの火をもらった煙草をふかし、魂が抜けたように、それきり黙った。
「返してくる」
「あ……、ええ。気をつけて」
「ん」
 リストを片手にティムが石の塔を出ていくと、静寂が思い出したように辺りを包む。レドモンドが煙草を吸うところを見たのは、初めてではなかったが、片手で数えられるくらいだった。
 煙がゆらゆらと立ち昇り、灰色の空間にぼやけて消えていく。何か言葉をかけたいと思うのに、今は何も出てこなかった。
 ユーティアはそっと鉄格子の中へ戻り、書き物机に腰かけて日記を取った。まっさらなページを開いたところで、はっとして背中を凍らせる。錯覚だ。真新しいページいっぱいに、誰とも知らない魔女の名前が並んでいるように見えた。それらはとても悲しく、救いを求めるように滲みながら浮かび上がってくる。
 唇を噛みしめ、両腕で自分の体を抱くとかすかに震えていた。目の前には何の変哲もない、ノートの一ページがあるだけだ。
 ユーティアはそこに日記をつけねばとペン先にインクをつけたものの、何度も書き出そうとしては同じ錯覚に襲いかかられ、ついにせり上がる悪寒を堪えきれなくてノートを閉じた。インクを吸ったペンが転がる。黒い染みが、書き物机に落ちる。
 手を伸ばして久しぶりに、真正面に座す分厚い背表紙へ指をかけた。――私のグリモア。心の中で呼びかけると、箱のように軽いその本は、人差し指一本で傾く。透明な石が、ユーティアを真っ直ぐに見据えていた。
 怖くはない。ただ、今はその濁りのない透明が、永遠に分かり合えない生き物の目のように見えて、苦しい。
 ユーティアは鍵を開け、グリモアを開いた。そしてそこにある使命を今一度確かめ、綴じた谷へ鼻先を埋めるようにして、強く抱いた。体の奥から込み上げてきた熱い涙が、間欠泉のように溢れてグリモアを濡らしていく。
「本当に、こんなことが……っ」
 震える息を押しつけて、ユーティアは背表紙に爪が食い込むのも構わず、唇を噛みしめて一人泣いた。書物は何も答えない。グリモアに記された文章は、滲むばかりで変わることはない。
 ユーティアはやがてティムが戻ってきて、気まずそうな足取りで廊下に立つまで、ずっとそうしていた。蝋燭を引き寄せて、冷たい手で日記をつける。インクは途中で尽きてしまって、深い青に変わった。
 書くべきことをすべて書き出したあと、ユーティアは真新しいページを一枚、頭の中を空にするように、真っ青に塗り潰さずには眠れなかった。


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