20 君の名を


「訓練は、どれくらいの期間なの」
「一ヶ月だ」
 ユーティアはその返答に、両腕の力を強くした。一ヶ月。たったの一ヶ月で、彼は戦場へ行ってしまう。一人の人間が戦士に変わるには、激化する戦争が終結するには、心がそこへ正しく向かうには、あまりに短い時間だ。たったの一ヶ月で、何が彼を守るように育ってくれるだろう。体も心も、互いを守る余裕など生まれない。血の流れる傷に布きれを巻きつける方法くらいしか、一ヶ月で学べるものなど想像ができない。
 大切なものが、かくも無慈悲に奪われていく。ユーティアは引きちぎられるような思いを感じて、固く目を瞑った。行き場のない憎しみと、それでも憎んでいなければ壊れてしまいそうな悲しみが体の内を巡っている。
 奔流のようなその水は体温を奪い、痺れたように動かないユーティアの背中に、サボがそっと手のひらを当てた。抱擁というにはあまりに淡い、蝋燭の火を消さずに触れるような温もりだった。
「泣かないでよ、行きたくなくなってしまう」
「ごめん、ごめんなさい」
「泣いていると、子供みたいに謝るね、君は」
「だって」
 泣きたいのは、あなたであるはずだ。
 言いかけたその言葉を、ユーティアは寸でのところで呑み込んだ。それだけは言ってはいけない言葉だった。あやすようにサボは笑って、背中を擦ってくれる。彼の声と呼吸が震えているのが収まるまで、ずっと顔を上げないように抱き合っていた。
 やがてサボは落ち着いた声で、うん、と納得したように言った。
「一つだけ、お願いがある」
「なに?」
「君の名前が欲しいな。もらえないか?」
 腕を弛めて身を離すと、明るいグリーンの眸と視線が重なる。ユーティアは頷いて、もちろんよと笑った。
「……ユーティア」
「うん。……はは、なんだか君の口から君の名前を聞くと、初めて会ったときを思い出すな。うん、ありがとう。光栄だ」
 サボも頷いて、笑みを浮かべた。かつて彼に、名前の由来を話したことがあった。今でも覚えてくれているとは思ってもみなかったが、ユーティアだってそれを覚えているのだから、お互い様だ。
 薄れようのない記憶というのが、時々、頭の中にある。光の中で編み物をしながら、小さなテーブルにハーブティーを置いて語らった遠い日の情景を、今でも夢に見てきたように思い出すことができる。
「名前だけでいいの? 他に、あげられるものはない? ああでも、ここには私のものなんて何も……」
 ユーティアは彼に、そういう喜びに満ちた日々があったことを忘れないでほしかった。例えそれが終わりを迎えたのは自分の責任だとしても、思い出は時に心を守り、救い上げ、その身を生かしてくれる。美化された遥かな記憶で構わないのだ。戦地でそれを思い出して、少しでも生きていく力にしてほしい。
 室内を見回して、何か、彼の思い出を揺さぶれるような品はないかと探す。ノートとインクではだめだ。ペンはそもそも、彼にもらったものである。私物といえば他に見当たるものはグリモアくらいしかなく、ユーティアは焦って、手紙の中のローズマリーの葉まで思考を巡らせた。髪がユーティアの振り返るのに合わせて、大きく翻る。
 はたと気づいて、頭の後ろへ手を回した。
「これ……」
 髪留めを外すと、牢での生活ですっかり伸びた胡桃色の髪は、両肩を覆い尽くして背中に広がる。小さな銀の花が並んだ、古い髪留めだ。何年使っているかも忘れてしまったくらい、昔から使っているそれを、ユーティアはサボの手に握らせた。いいの、と訊ねる彼に、深く頷く。
「迷惑でなかったら、持っていって。私のお祈りが、いつもあなたを包んで、何度だってあなたの中に甦るように」
 サボは礼を言って、髪留めを大切に受け取った。はにかむような微笑みは、青年の頃の面影をそのままに残していて、ユーティアの目の奥をもう一度熱くさせそうになる。戦争、果てはそれを進めていく時間さえも憎いと思う気持ちと、古びた種のような愛情が絡まり合って、息が詰まる。
 サボがふいに、柔らかな声で言った。
「君と結婚しなくて、よかったかもしれない」
「……冗談」
「そうだね、ごめん。ちゃんと生きて帰れるように、力を尽くすよ」
 対する声音が鋭く、叱るようなものになってしまうのは、気を緩めたらあと何回涙が溢れてくるか分からないからだ。
「手紙、届けられなくなってごめん」
「心配しないで。今まで、本当に助かったわ。ありがとう」
「時々、こうして会いにきてもいいかな」
「もちろんよ。訓練に疲れたら、話しにきて」
「面会は、何時までだっけ」
「……気にしなくていいわ。咎める人はいないもの」
「そう。そうか」


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