20 君の名を


 ユーティアはちらと、階段の傍に立つ二人を見た。沈黙を貫く彼らは聞こえないふりをして、石の壁に背中を預けてそっけなく立っている。会いに来るよ、と繰り返して、サボはもう一度だけハグを求めた。ユーティアは両手を広げて、それを受け入れた。
「じゃあ、また」
 名残惜しさを押し隠して、サボが背中を向ける。ティムが面会の人間は送り届けることになっていると言い、彼を兵士寮まで送っていく申し出をした。サボが振り返り、おやすみと微笑む。ユーティアも手を振って、扉の前まで彼を見送った。
 時間外に石の塔から出ることは許されていない。二人のくぐっていった扉が鼻先で閉まり、灰色の壁となる。緩やかに振っていた手が、軋んで止まった。
 ユーティアはその場に、崩れるように膝をつくと、額が床へつくほど体を折った。そうして声を殺して、激しく泣いた。
「唯一の私物をやるなんて、情が深いもんだな」
「……」
「そんなに好きなら、素直にキスでもしてやればよかったのに。あの場で茶々いれるほど、俺たちも腐っちゃないんだから」
 レドモンドがため息まじりに言って、階段から落ちそうになるユーティアの背中を押さえた。しゃくり上げるたび、震えがその手に伝わっていくのが苦しい。ユーティアは黙って、首を横に振った。
 そうして顔を上げると、両手で涙を拭って答えた。
「あなたたちが、何があっても黙っていてくれるのは分かっていたけど。だめよ、そんなことしたら」
「どうして」
「……どうしても。どんな手を使っても、引きとめたくなっちゃう」
 時間よ止まれ、だとか。神様どうか彼をお護りください、だとか。そんな目に見えないものに祈るくらいでは、済まなくなってしまう。サボと抱き合いながら、ユーティアは自分が止め処なく考えた彼を戦争に行かせないための手段を思って、自らの卑怯さに目眩がした。命を奪わない程度に健康を阻害する薬を調合すれば、あるいはグリモアの達成にこの人が必要なのだと王を欺けば――あのとき、悲しみに涙を流しながらそんなことを考えた。
 どちらも結局は、彼に嘘をつかせ、仲間への後ろめたい気持ちを植えつけるだけなのに。嘘が見抜かれれば、命だって危うい。それでも、ならばサボすらも自分が騙せばよいのではないかと、合わせた鼓動の裏で真剣に思っていた。
 牢にいて、無力でなかったらそうしていたかもしれない。目尻を拭うユーティアをじっと見下ろしていたレドモンドが、ふうん、と興味を尽かしたように腰を下ろした。
「どうするんだよ、髪」
 背中を覆い尽くした柔らかな髪を見て、レドモンドは言う。
「髪なんて結ばなくても、生きていけるわ」
「そうじゃないだろって」
 八つ当たるように答えたユーティアの声を、彼は呆れた口調で遮った。面倒くさいものを見る、遠慮のない目だ。でもそこにあるのが、あくまでも呆れであって、怒りや軽蔑の感情でないことは分かる。
 ユーティアは丸まっていた背中を起こした。胸元に髪が、うるさく散らばってくる。
「つけかえたことに気づかれないような、地味なのでいいの。いつかここを出られたらお礼をするから、買ってきてほしい」
「髪留めだけでいいわけ? 他に言うことは」
 レドモンドはふっと、立てた膝の上で頬杖をついて笑った。
「一度だけでいいわ。母に出す手紙を持っていって」
 観念して、ユーティアは素直に彼を頼ることにした。囚人の求めるものというのは、自由がなく制限されている分、傍目に見ていると手に取るように分かるのかもしれない。ユーティアにとって髪をまとめるのは、毎朝の気持ちを整える習慣であったし、母への手紙はせめて最後に一通、しばらく連絡が取れなくなるが心配しないでほしいという旨を伝えたかった。
「誰にも言うなよ。髪留めは訊かれたら、さっきの男からもらったことにしときな」
 念を押して、レドモンドは頼みを引き受けた。ユーティアは彼に丁寧な礼を述べると、夜の間に母への手紙をもう一枚書き、二人に託した。

 一ヶ月後、サボを含む五百人あまりの兵士が城を出発した。各地に散らばっている他の訓練兵たちと合流し、五千の軍隊となってモントールへ北上する。彼らはそこでエンデル軍と共に、南下するセリンデン軍と戦うのだ。砲撃の音は今や、国境より絶え間ないという北の地で。
 部隊が出発した夜は、昼の青空をいつまでも忘れられずにいるような明るい星空だった。満月にほとんど近い月が、独房の一角を白く照らし出す。
 こんな日々があとどれくらい、続くのだろう。
 遠く、前庭から芝生を伝ってやってきた、出発前の国歌を斉唱する声が、瞼を開いても閉じても耳の奥で響いている。白んだ壁を見つめて寝返りを打ち、ユーティアは浅い眠りでその夜を越えた。


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