]T.甘い果実の堕ちる場所


 毎朝、携帯電話のアラームと、枕元に並べた古い目覚まし時計のジリリリリンという音で目を覚ます。日曜の朝はそれらの目覚ましが、いつもより二時間遅くセットされているので、カーテンを開けると日はもう十分に昇ったところだった。
 ベッドの中から、眠っている間に脱ぎ捨てた靴下を探して畳み、チェストを開けて部屋着のトレーナーとカーゴパンツを引っ張り出す。新しい靴下を出して冷えた両足を突っ込み、早朝に届いていたメールを一通返して、私は部屋を出た。
 階段を下りて洗面所へ行き、水滴だらけの鏡を拭いて顔を洗う。寝癖のついた髪の毛を梳かし、リビングが静かなことに気づいて、ああと思い出した。
 今日は母がパートに出ている日だ。父は昨日の夕食のとき、明日は朝から会社の同僚とゴルフに行くと言っていた。家にいるのは、私と兄だけだ。ふむ、と洗面所の後ろにある洗濯篭を覗いて、傍にあったヘアゴムで髪を一つに括る。
 トーストを焼いてお湯を沸かし、インスタントコーヒーにミルクをたっぷり。砂糖を二杯入れて、焼けたパンにバターを塗り、その上にも砂糖をまぶした。テーブルの上の新聞をラックに放り込みながら、パンをかじりつつカーテンを開けて、外の天気を窺う。風は少なく、雨が降りだしそうな雲もない。さっぱりとした、淡い水色の一枚絵のような空だ。
 ――あの世界に晴れの日は多かったが、こういう、一色で塗り潰したような空の日というのはなかった。
 首に下げたネックレスの、濃い紫と薄い紫が煙のように混じり合った石を見下ろして、ふとそう思う。どんなに天気の良い昼間でも、ラベンダー色だけが広がった空というのはなく、いつも濃淡が緩やかに絡んで遠くまで続いていた。毎日、中庭で洗濯物を干しているときに見上げたものだ。慣れというのは恐ろしいもので、私はこのところ、地上の空が少し眩しい。
 トーストを甘いコーヒーで流し込み、カップを洗って二階へ上がる。私が地上に、そして自分の家に戻ってきてから、今日でちょうど一週間が過ぎた。冬休みはあと数日で終わる。そろそろ学校の準備もしなくてはならない。
 休みの前に脱ぎ捨てて適当に放置してしまったスカートは、一応ハンガーに下げてあるがアイロンかけが必要だろうか。カーディガンは先日、手洗いして毛玉を取ってある。スクールバッグの中を整理して、ついでに休みが明けてすぐの試験へ向けて、机の上を片づけるのを今日の仕事にしよう。
 階段をとんとんと上がりながら、何かに急き立てられるように予定を立てている自分に苦笑する。四ヶ月という密かな時間のずれは、地上へ戻ってきてからもすぐには元通りにならないようだ。毎日がひどく緩慢に過ぎていく感じがして、心が落ち着かない。魔界に行く前、自分はこの家で普段、何をして過ごしていたのだろう。
 本を読んでもテレビを見ても携帯を弄っていても、何かが大きく欠けている気がしてじっとしていられないのだ。ぼんやりと暇を持て余していると、その欠落が少しずつ広がっていって、自分が妙な穴の中に落ちてしまうような錯覚がしている。その感覚から逃れることができるのは、何かに集中しているときだけなのだ。必然的に、私はこのところ、毎日を予定と計画に追い立てられて生活している。
「お兄ちゃん? 開けるよ」
 二階に上がってすぐのドアは、兄の部屋だ。昔は子供部屋として私が半分を使っていたが、兄が小学校を卒業する頃にそれぞれ部屋を分けられたので、私は比較的幼いうちから一人部屋をもらうことになった。
 兄の部屋のドアには未だに、昔の名残のシールや鉛筆の跡が残ってしまっていて、中には多分私がやったのだろうと思われるものもある。ノブに残っている剥がし損ねたシール跡もその一つだ。中学くらいの頃には何度か文句も言われたが、喧嘩をするには私の歳が微妙に離れていたせいか、結局はあまり怒られたり嫌味を言われたりした記憶がない。
 ノックをすれば、中からはすぐ間延びした返事があった。兄はわりと早起きだ。休日も、家族の中で一番先に起きていることが結構ある。
「起きてたのか」
「うん。さっき目、覚めた」
「もうすぐ昼だぞ」
「まだ十時前でしょ」
 今日もどうやら、私よりだいぶ早く起きていたらしい。とっくに朝食は済ませたのだろうか。出かける用事はないのか、後頭部に寝癖をつけたまま、眼鏡をかけてパーカーを羽織っている。
 ずいぶん古そうなテレビゲームをしていた。変なところでマニアックなのは相変わらずだ。子供の頃から、これと決めたものがあると淡々とのめり込んで、周りが忘れるくらい長いあいだ没頭していたりする。ゲームも雑誌も音楽も、兄は何でもそうだった。同じ曲を三年間くらい、毎日のように聴いたりする。
「何か用か?」
「洗濯物、ある?」
「……は?」
「お母さん出かけてるし、洗濯するから。洗うものあったら、出して」
 箪笥に背中を預けてそう言うと、兄は一度こちらを振り返ってから、目の前のゲームを中断画面にしてコントローラーを置いた。それからもう一度、改めてまじまじと私の顔を見上げる。
「なに?」
「いや、うん。洗濯、洗濯物な。ちょっと待って」
「うん。あ、色柄物洗うから、ジーンズとかでも平気だよ」
「おお」
 何に対する感嘆の声だったのだろう。よく分からないが、兄がベッドの横に放り投げてあった服を選別し始めたので、私はしばらく黙って待つことにした。テレビ画面で固まったままのキャラクターが言いかけていた台詞や、大学の論文に使う資料に交じってCDの散乱した机を、手持無沙汰に眺める。


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