]T.甘い果実の堕ちる場所


 そういえば、この部屋に入ったのは久しぶりだ。中学生くらいまではよく一緒にゲームをしていたのだが、高校に入ってから私はあまりやらなくなった。雑誌や漫画を返しにきたことはそれなりあったが、大抵ドアを開けてすぐのベッドの上に置いていって、部屋にあるものを見るようなことはなくなっていたかもしれない。最近は兄も何となく忙しそうだったから、尚更だ。
 変わったと言えば変わったような、そうでもないような気のする部屋。本棚を眺めて、ふとその隣に何着かかけてあるコートを見た瞬間――私は自分の呼吸が、はたと止まったのを感じた。
(……なんで……)
 カーキのジャンパーと、古くさいマフラーの間に押しつぶされた、黒のコート。柄らしい柄やアクセントは何もなく、背中に垂れたフードにファーがつけられている。
 嘘でしょ、と思う間もなく、熱い震えが喉を駆け上がって両目から涙が流れた。
 頭の奥で曇りガラスが割られた。とてつもない量の思い出が、思考の形を成すことさえままならず、奔流のように溢れてくる。この一週間、過去に向かったと思っていたものたちが鮮やかに輝きながら、私の中を駆け巡って、一瞬にして満たした。
 気づけば私は、溺れるような涙を零して立ち尽くしていた。分かっている。ただのよくある、黒のコートなのだ。
 重なるほどに似ているものではなく、見間違って戸惑うなんて、よほど目が悪くなくてはありえない。思い出の中で翻ったそれと目の前のコートとは、ただ色が同じという以外、共通している場所など何一つなかった。同一であるはずもない。端からそんなことは分かっているのだ。分かっているのに、それなのに、なぜ。
 どうして、こんなにも思い出すのだろう。
「これとこれと、これ――……えっ?」
 洗濯物を両腕に抱えて振り返った兄は、たった数十秒の間にぼろぼろと泣き出していた私の顔を見て唖然とした。それからはっとして、慌てたように洗濯物を投げ出して傍へ来る。
 声もなく両手で顔を覆った私の肩を掴んで、しばらく狼狽えてから座るように促した。私は黙って、その場に座り込んだ。
「俺が、何かした?」
「……っ」
「うーん、だよな。じゃあ、何があった?」
 首を横に振って否定すると、問いかけを変えられる。口を開いて何かを答えねばと思ったのだが、息を吸えば酸素さえ涙に変わるようで、すぐには答えることができなかった。兄は洗濯物を膝の周りに散らかしたまま、そんな私を辛抱強く待っている。私はその沈黙に、少し甘えた。瞼の裏が瞬きをするたびに、熱い水でいっぱいになる。
「……お前、変わったなあ」
 何分、そうしていただろう。兄が渡してくれたティッシュを二十枚は濡らしたところで、しみじみと呟かれて顔を上げた。涙はまだ止まったわけではなく、気を抜けば細く流れてくるが、視界が歪んでやまないほどの大粒ではなくなっていた。膝にぽつぽつと、雨に降られたような染みができている。首を傾げると、兄はどこか難しい目をして私を見て言った。
「前まではもっと、泣き出すとわんわん泣いて、泣きながら何が嫌だとかむかつくとか文句言って、泣き止むまで騒いでただろ。お兄ちゃんのバカーとか、もう知らないとか、色々叫んで」
 私は兄の言葉に、思わず涙も引っ込んで、目を丸くした。
「そう、だっけ?」
「まあ、確かにここしばらくは、泣いて騒ぐような喧嘩はなかったけど。でも、前は喧嘩じゃなくても、泣くともっとぐすぐすいって騒がしかった。それだけじゃない」
「え?」
「お前、上野から帰ってきてから、雰囲気がまるで変わったよな。急に大人びたっていうか、しっかりしたっていうか」
 上野、という言葉に、頭の中の一部分をはっきりと見透かされた心地がして、びくりと肩が跳ねる。兄は訝しむように、眼鏡の奥の両目をわずかに細めた。私が困惑して視線を外すと、大げさにため息をついて足を崩す。張り詰めていた空気が、栓を抜かれたように緩んだ。
「お兄ちゃんには、そう見えるの?」
「親父にも母さんにも、多分同じように見えてんじゃねえかな。……見た目は変わってないって、お前だって分かっちゃいるけど、別人に見える瞬間があるくらいには」
「……そうなんだ」
「さっきも言ったけど、雰囲気が全然違うんだよ。何よりお前、今までは家事なんてろくにやらなかったし、洗濯だって頼まれたときくらいで、わざわざ家族の分まで集めるような機転はなかっただろ。まったく、動物園で何を学んできたのか知らないが、この一週間、俺は驚きの連続だよ」
 寝癖の残る髪をがしがしとかき上げて、兄は戸惑いをごまかすようにそう言った。私が気づかなかっただけで、もしかしたらその変化はずいぶん顕著で、家族を動揺させていたのだろうか。兄がこんなふうに、どうしたら良いか分からなくなっているところなど、本当に久しぶりに見た。それこそ私が中学生のとき、たまたま虫の居所が悪かった日にゲームで負けて、両親が駆けつけるほどの大泣きをしたとき以来ではないだろうか。


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