V.魔界


 この世界は大きく分けて、三つの世界で成り立っている。
 初めに生者の世界である、地上。人間に限らず、多くの生き物が生きている世界だ。肉体を持っている間だけ暮らせるうたかたの世界で、三世界の中心に存在している。
 そして極楽、或いは天国と言われる空の彼方の世界、神界。神や天使、仏が住まい、地上で命を全うした生き物も多くここへ導かれていく。
 そして。
「――第三に、地下深くにある魔界。冥府でもあり、君たちの文化では〈地獄〉と呼ばれることもある。魔族が支配し、人間が訪れるのは死後、魂の状態になって、生前に犯した罪を償わなくてはならない場合のみだ。日中もこのように暗く、他の二世界のように太陽をはっきりと目にする機会はない。人間の立場は低く、彼らはあらゆる罰を受けながら、転生の条件を満たすために生活している」
 はは、と唇から、渇いた笑いが漏れた。先ほどの絶叫で痛めた喉に、吐息がひりひりと沁みる。
「ここまでで、何か質問は」
「はい」
「どうぞ」
「私は、なんでその魔界に、生きたまま来てるの?」
「それは分からない」
 ばっさりと、私の質問は最も希望のない答えで切り捨てられた。高く挙げていた手を、今一度下ろす。
 猫足の椅子に腰かけて、ルクは思案するように口許へ手を当てた。灰色の髪がさらりと輪郭を覆い隠して流れる。
 ――この人が、魔王とは。
 如何にも重々しいが、どこか絵空事感覚の抜けない、玩具の鉄球のようなその響きを頭の中で繰り返して、私は今しがた教わったことを自分なりに整理しにかかった。間近で悲鳴を上げてしまったせいか、しばらくは絨毯の上にうずくまっていたルクだったが、一頻り混乱した私が騒ぎ疲れて静かになると、状況を簡潔に説明してくれた。
 初めに、ここは魔界であるということ。この場所は魔王城で、ルクは魔界の一番偉い人だということ。ルクは城内の愛称で、本名はルクシオンという。魔界とは前述の通り、生きていた頃に数多の罪を犯した人が送られる世界でもあるということ。
 そしてなぜか、私はそこに、生きたまま送られてしまったらしいということ。
「何か、きっかけがあったはずだとは思いますが」
 椅子の横から、槍の男が遠慮がちに口を挟んだ。彼の名はゼンという。魔界騎士団の団長兼、ルクの護衛を務める人だと先ほど紹介してもらった。
 槍を突きつけられた恨みは残っているが、ゼンさん本人から謝罪があったので、一応は水に流して許すつもりでいる。魔界で人間の生者か死者かを見分けることができるのは、魔王であるルクだけだと聞いたことも大きい。ゼンさんには、私が生きた人間だとは分からなかったのだ。魔界に堕ちている死者が、どこからか城に侵入を図ったと勘違いしたらしい。
「生者は普通、そう簡単に魔界へ入れるものではないんだ。ここへ来る直前に、何をしていたか話してもらえないか?」
 それもこれもすべて、この魔界が大前提として、生きた体を持つ人間が現れるところではないから。私は頷いて、二人に今日、上野に着いてからの出来事を一通り話し始めた。

「それじゃあ、君は〈地獄の門〉に触れた――と?」
 魔界へ堕ちる直前までの話をすべて聞いたルクは、猫足の椅子の上で脚を組んだまま、愕然として言った。
「だから、触ろうと思って触ったわけじゃないってば。手が本当に触れたかどうかさえ、私は分からなかったの!」
 警備兵の一人が持ってきてくれたパイプ椅子に座ったまま、上半身を乗り出して、私は反論する。故意に触れたわけではない。たまたま、運悪く足が引っかかってしまっただけだ。
 パイプ椅子がぎしりと軋んだ音を上げる。まさか魔界までやってきて、学校の入学式や卒業式によく並べているものと同じ椅子に座るとは思わなかった。魔王城の椅子なら、例え持ち運びに便利と言ったってもう少し良いものはないのかというがっかり感と、そのがっかり感に安心している自分に何とも言えず腹が立つ。まったく、なんと親近感の湧く座面の薄さか。
「触れたんだろう。多分、その瞬間に門が開いてこちら側へ引き込まれたから、ほんの一瞬のことだったとは思うが……はあ、だからあれほど近づくなと書いておかせたのに」
「しょうがないじゃない、わざとじゃなかったんだから」
「いたずらに触れる気を削ぐための術は施してあったが、悪意のないのは盲点だった。まさかそんなに運悪く、あの門に突っ込む形で転ぶ人間がいようとは……」
 心底考えたこともなかったと言わんばかりに口にされて、私はかあっと赤くなる頬を髪で隠した。これ以上、妙な疑いをまた持たれたくないと、上野での自分の行動を細かく思い返して話したが、その部分については話すときに恥ずかしかった。あんな場所で、それも一人で転ぶなど、私だって考えもしなかった。体ごと門をくぐれたからまだよかったものの、魂だけで来てしまったら、体は今ごろ晒し者である。
 魂と体が分離してしまったとしたら、それこそどうなっていたか分からない。転倒が原因で死亡、もしくは昏睡状態の扱いではないだろうか。多分、パンツを晒した状態で警察のお世話になっていた。本当に、体も持ってこられてよかったと思う。
 スカートの丈をチェックして心の中で頷いた私に、困ったような溜息をついてルクは言った。


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