番外編‐インクワイエット


「あのなあ、私だって男なんだ」
「知ってるよ?」
 彼女だと思ったことはない。黙っているとすごく憂いげな美人だな、とは思うけれど。即答すれば、ますますルクの表情は複雑そうなものになった。
「だったら、あまり気安く揺さぶらないでくれ」
「揺さぶる?」
「帰りたくないだの、泊まっていくだのと。君からすればそれ以上でも以下でもないのかもしれないが、どうするんだ? 私が、そうかと帰さない気になったら」
 問い質すように覗きこまれて、思わず目を瞠る。ぐ、と手を引かれて唇が掠めるかと思った。
 ルクはそんな私を見て、ふ、と相好を崩した。
「なんて、な」
「えっ?」
「いや、なに、ちょっとした例え話だ。君があんまり意地を張るから、つい張り合ってしまって。そんなに驚かないでくれ、すまなかった」
 返事をするより早く、ぽんぽんと頭が撫でられる。手のひらに隠されて、謝ったルクの顔は見えなかった。さあ、行くか。まるですべてなかったことのように、ワゴンを取って、彼はドアへ向かおうとする。
 その手を、思わずぎゅっと握った。
「いいよ?」
「……は……」
「確かに、ルクの言うとおり。私は本当に、帰りたくないからそう言っただけだけど……そういうの、考えたことがないわけじゃない」
「……っ」
「分かってないわけじゃなくて、ルクならいいかなって思ってるから、言ってるんだよ」
 心臓が、大きく鳴っている。
「……それでも、私は帰ったほうがいい?」
 呆気に取られたように固まったままになっているルクを見上げて、私は今一度、訊ねた。

 頭のところに本棚がついているベッドを見ると、いい家具を揃えているのだろうな、と思う。もっとも、ルクが値段のいいものを好んで揃えるということはなさそうだけれど、大きな立場を担うためには、それなりに質の高い生活をしたほうがいい。
 きっとゼンさんやタリファさんあたりが、そう進言したのだろう。ルクの私室にはひどく庶民的なものと、質素に見えるが容易には手の届かなそうなものとが、互いの境界線をごまかすように、静かに溶け合って存在している。安そうなシェードを被ったランプを、点けてみる。ベッドで本を読むときに、使うのだろうか。
(これは……小説かな。これと、これも。へえ、物語ばっかり)
 最近少しは読めるようになってきた魔界の文字で、書かれた背表紙のタイトルを眺める。コーヒーを飲んでいるテーブルや、部屋の手前の本棚にあるのは、魔界の歴代の王に関する本や各地の調査書、はたまた農耕や経営学の本など、仕事に使えそうなものばかりだ。でも、寝室には小説だとか、図鑑も置いてあった。前に入ったときはまだ文字が読めなかったから、これはちょっと、新しい発見だ。
 勝手に読むのは悪い気がしたので、出して、表紙だけ眺める。なんと、ファンタジー小説のようだ。魔界にもファンタジーという概念は存在するんだなあ、と漏れた笑い声が、静かな部屋に響いてしまって、何とも言えず今の状況を意識してしまった。
 私は今晩、ここに泊まるのだ。
 ちらと、時計の針を見る。もうすぐ十一時半を指そうとしている。ルクは今、ワゴンを返してくると言って部屋を出ていっている。多分、私に考える時間をくれたのだろう。
 もしここで、私が逃げたとして。ルクは明日になれば、何事もなかったような顔でおはようと言うんだろうな、と思う。選択は常に許されている。でも、逃げたいとは思わない。
(付き合っていれば、いつかは来ることだし。ていうか、現世の感覚と比べたら、だいぶ遅いくらいだし)
 ランプの光に表紙をかざして、ふ、と笑う。実際、私は結構前から、覚悟は決まっていた。もしかしたら、ルクより前から、そういうことも考えていたかもしれないと思う。ルクがキスひとつでさえ遠慮がちに触れてくるから、そうなる機会が今日までなかっただけで。
(案外、ルクのほうがやっぱりだめだとか言い出したりして。なあんて……うわ、ありそう……)
 シャツを肌蹴させ、真っ赤になって逃げ惑う恋人の姿をありありと想像してしまい、私は否定しきれない可能性にかぶりを振った。絵面が完全に、襲われた美少女だった。違う、彼女じゃない、彼氏彼氏、と頭の中で訂正する。
 ちょうどそのとき、寝室のドアがノックと共に開けられた。
「……マキ」
「おかえり」
 ワゴンを置いて、手ぶらで帰ってきたルクが、いたのかと確かめるように名前を呼ぶ。私は努めていつも通りに、笑いかけた。呼応するように、彼もちょっと笑った。踵の薄い部屋履きの靴を脱いで、ベッドに上がってくる。
 私の右隣が、ルクの重さに音もなく沈んだ。反対に、痛いほど浮き上がった心臓に驚いて、思わず自分の胸に手を当てる。
 ふと、ルクの目が私の膝に留まった。
「あ、それ」
「っ、え? あ、ああ、この本ね。ごめん、手持無沙汰だったから、表紙だけ見てて」
 中身は読んでないよ、小説とか読むんだね、ていうか読書とか好きなの。捲し立てるように言ってから、返事を挟む隙がなくてぽかんとしているルクを見て、我に返った。
 そうして自分の声の、たどたどしさや早口さに、呆然とした。あれ、と戸惑う。いま私は、何をそんなに慌てたのだろう。
 すとんと、ルクが隣に脚を崩した。横座りになっている私と、目線の高さがあまり変わらなくなる。
「別に、読んでも構わない。というか、ちょうど君に貸そうと思って、読み返していたところだったんだ」
「あ、そうなの?」
「だいぶ読める文字が増えてきたみたいだから、勉強ついでにどうかと思ってな。せっかくなら、楽しんだほうが覚えやすいだろうし」
「ルク……」
「そんなに難しくはないから、きっと読めるだろう。感想を話してもらったときに、貸したほうが覚えていないと、つまらないじゃないか。それで読んでいたんだ」
 冒険小説のような、少年っぽいものを読むのだなと思っていたが、まさか私のためだったとは。思いがけない気遣いが嬉しくて、私は表紙に描かれた主人公の角を指で撫でた。古い本だ。もしかしたら、昔に読んだ簡単なのを引っ張り出してくれたのだろうか。
「ありがと、楽しみにしてるね」
「ああ。もうじき読み終わるから、そうしたら渡そう」
 ふふ、と笑った私の手に手を重ねて、ルクがその本を抜き取った。私の前を横切って本棚に戻す体勢に、必然的に距離が近くなる。ことん、と本が棚へ収まる音がして、ルクの腕は元の場所へは戻らなかった。
 私の腕にそっと触れて、振り向かせるみたいに、軽く引っ張った。


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