番外編‐インクワイエット


「眠くない。もう少しいる」
「マキ、」
「ルクが私を追い出したいなら、帰るけど」
 ふい、と横を向けば、あからさまに困ったような手が行き場なく私の周りをさまよった。我ながら、先に欠伸をしておいて勝手だとは思うが――まだ寝たくない。世間ではそれを「もう少し一緒にいたい」と言うんだろうな、と他人事のように思った。そんなふうに可愛くねだれないから、どうにも困らせるような言い方ばかりしてしまう。
 あー……、とルクが言葉を探すように、カップをワゴンへ戻した。立ったものの、断固として動かずテーブルの傍にくっついている私を見て、その眼差しがちょっと柔らかなものになる。
 伸びてきた手が、頭を撫でた。遠慮がちに優しく、あるいは言い聞かせるように、ゆっくりと。
「君を追い出したいなんて、思うはずがないことくらい、分かっているだろう?」
「……だって」
「あまり疲れさせて、ここに来ることが億劫になってほしくないんだ。そうなったら寂しくて、君を探して、仕事も手につかなくなってしまいそうだからな」
 冗談めかして言ったルクに、想像して、私も笑いそうになった。一介のメイドを探して、夢遊病者よろしくお城の廊下を徘徊する魔王様なんて、威厳も何もあったものではない。ゼンさんあたりに知れたら、二人揃って叱られてしまいそうだ。さすがにそれは私を帰すための優しい言葉だとしても、前半がルクの本心なのは分かっている。
 分かっている、けれど。私がここに来るのを億劫に思うはずがない、とは、考えてくれないのがもどかしい。
「マキ」
「やだ」
「まだ何も言っていないんだが」
「帰ろうって言うつもりだったでしょ」
「最近君は、何も言っていなくても私の言いたいことが聞こえているみたいだ。嬉しいことだが、こういうときは困りものだな。……ほら」
 少し笑って、躊躇いながら差し出される手。人目につくと恥ずかしいと言って、普段はなかなか部屋の外で手を繋いでくれないルクが、珍しく帰り道のあいだ繋いでくれる気でいる。彼なりの、私への譲歩なのだろう。
 男の人にしては華奢で中性的な、まっすぐな指の上に指を滑らせると、包み込むように握られた。
 その手を、ぎゅうっと握り返して引っ張る。
「マキ?」
 歩き出しかけたルクが、困惑したように振り返った。私も、自分がまだ強情に突っ立っていることに戸惑った。歩かないと、という気持ちの奥から、むくむくと帰りたくない気持ちが様子を窺っている。
 参った。私はどうやら本当に――自分で思っていた以上に――もう少しこの人と一緒にいたい、らしい。
「帰らない。今日はここにいる」
「は……?」
「ルクと一緒に寝る。前も一回あったもん、いいでしょ」
「なっ!?」
 ならば、その気持ちに従ってみるまで。決めた、というように宣言すると、ルクが頓狂な声を上げた。
 お兄ちゃん曰く、私は子供の頃からわりと頑固で、こうしたいと思ったことは中々曲げられない性質らしい。無理に曲げると、諦めが悪くて、いつまでも引きずってぐずる。だから以前に私が一度、魔界から戻ったときも、さっさと会いに行かせたほうがいいと思ったのだと、後々になって聞いた。
「確かに泊まらせたことはあったが! あれは声紋認証が壊れたからで、不可抗力だっただろう」
 まるでそのときのことを思い出したように、焦った声でルクが言う。この部屋と廊下の間にある声紋認証の術式が壊れ、一晩をここで過ごしたのは、もう一年以上前。私がまだ高校生で、キスはおろか、手を繋ぐことさえ二人ともまだぎこちなかった頃。
 突然二人きりになってしまった私の焦燥を宥めるように、精いっぱい緊張を押し殺して、抱きしめてくれた腕を今でも覚えている。またあのときのように抱き合って眠りたいと思う日があって、何がおかしいだろう。私たちは、恋人同士なのだ。
「どうしてもの理由がなきゃ、一緒にいちゃいけないの?」
「う……っ、卑怯な言い方をしてくれるな。そういうわけではないが、今は、だな」
「じゃあ、明日ならいいの?」
「だからそういう意味ではなくて……!」
 はあっと、ルクはその先の言葉をため息で消してしまった。焦れたような、珍しく苛々しているようにも見える態度が、余計に私を意地にさせる。追い出したいわけではないと、そういうわりには、ルクは折れない。
「……なんでよ」
「明日、昼食を一緒にとろう。それで、」
「そんなふうに、何でもしてやるから帰れって顔しないでよ。……寂しい」
 ぽろりと零れた言葉に、ルクがはっと押し黙る。しまった、そんなに悪いことをしたように思わせたかったわけじゃない。そう思うのに、出かかった言葉を止められなかった。
「私ばっかり、恋人の気でいる、みたい」
 いけない、言いすぎている。自覚があるから、語尾がどんどん弱くなっていくのに、結局最後まで声に出てしまった。
 放っておかれているわけではない。大事にされていないとも全然思っていない。でも、キスやハグをねだるのは私からのほうが多い。手を繋ぎたがるのも、帰り際に寂しがるのも、いつも私だ。無意識に堆積していたほんの小さな不安が、我儘という着ぐるみを被って、出てきてしまった。
 気づいたけれど、今さらそれをどう説明したらいいか分からなくて、視線を下に向ける。私も案外臆病者なところがあるし、ルクが優しいから、これまで喧嘩らしい喧嘩なんてしたことがない。いつもと違う、張り詰めた沈黙が怖い。怒っているのかもしれないと、固唾を呑んだ、そのとき。
「……恋人の気でいないのは、君のほうじゃないのか」
 ぼそりと、苦々しい声がそう言った。え、と顔を上げると、様々な感情が滲んだ紫の眸に射抜かれる。怒りや呆れといった、私が想像していたものの他に、困惑、焦燥、それと不思議な――嫉妬、に似たような苦しげな色があった。


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