番外編‐インクワイエット


「……マキ?」
 緊張に薄く掠れた声が、そう呼んだとき。私は、何も返事ができなかった。
 何千、何百回と呼ばれた名前。数えきれないほど聞いてきた声と、触れてきた手。今さら意識することなんて、考えもしなかったその声と手に、私の頭は一瞬で真っ白な焼け野原になった。開きかけた唇が、言葉を何一つ思い出せなくて、震える。空白に心臓の高鳴りだけが、大きく響く。
(なんで)
 一瞬か数秒か、ようやくあって頭の中に戻ってきた最初の言葉は、それだった。
 飛び出してしまいそうな心臓を押さえるように、ワンピースのボタンを握る。なぜ、どうして、私は。
(なんで、こんなに緊張してるの)
 気を抜けばすぐにでもまた、頭が真っ白になってしまいそうな気分だ。予想もしていなかった事態に、余計に気持ちが追いつかなくてこんがらがっていく。
 覚悟ならとっくに、ちょっとふてぶてしいくらい、どんと決まっているつもりだった。付き合っていれば普通のことだから。もうそれくらい、してもおかしくはないから。手を繋ぐのも抱き合うのも平気だし、キスだって、私は全然躊躇わずにできるから。
 ――そう、思っていたのに。
「マキ」
 探るような声と共に、指先がするりと、うつむいた私の髪を耳へかける。それがかすかに頬へ触れた瞬間、冷たさに目眩がするかと思った。
 まずい、何も考えられない。促されて、無意識に上げた視線が、紫のそれと重なる。
 私の顔を見たルクは、一瞬、驚いたように目を瞠った。そうして、ふ、と綻ぶように笑って、両手で頬を包んだ。
「……可愛い」
 あ、だめだ、これは。何も、全然、一言も、考えられない。それを口にする言葉さえ、いつもどうやって組み立てていたか、思い出せない。
 心臓の音が、キスに呑み込まれる。びくりと慄いた背中がシーツに降ろされて、そこから先は、断片的にしか覚えていることができなかった。


 カーテンの隙間から差す朝の光が、かすかに腫れぼったい気のする瞼を押し上げていく。今日も今日とて、窓の外は何とも言い難い紫の空だ。それでも今日は、快晴、といったところか。朝にしては結構、眩しいほうである。
「あ、目が覚めたか。……おはよう、マキ」
「……お、はよ」
 まさか、しばらく前から起きていたけれど、どんな顔をしたらいいのか分からなくて寝たふりを貫いていた、とは言えず。窓を開けて戻ってきたルクに、私は鼻まで布団にもぐりながら、歯切れの悪い挨拶をした。
 とはいえ、多分なのだが――寝たふりをしていたのはお互い様だ。時計の針はもうすぐ、七時を指そうとしている。ルクは普段、目覚ましがなくてもあと一時間は早く目が覚めると言っていた。私が密かに目を覚ましてから、寝息を聞いた記憶もない。
 物音に顔を向けると、クローゼットを開けた音だった。背中を向けたルクが着替え始めたので、慌てて寝返りを打つ。その拍子に、お腹に鈍い痛みが走って、私は火が出そうな顔を枕に埋めた。
 昨夜、結局あれからずっと、主導権を握っていたのはルクで。私はといえば、逃げ出すとか逃げ出さないとかいう選択肢すら頭から消え去って、終始されるがままになっていたような記憶しかない。
(……は、はずかし……)
 余裕をぶっこいていたような覚えがあるだけに、思い返すとその一言に尽きる。正直に言って、私のほうがリードするかも、くらいに余裕をぶっこいていた。無知とは強い。そして恐ろしい。これ、今日から私のザユーノメイとかいうやつになるかもしれない。
「マキ」
「ひえいっ」
 悶々と考え込んでいたら、真後ろから声をかけられて飛び上がってしまった。私の驚きように、ルクまでがつられてビクッとしたのが見える。申し訳ない。恐る恐る振り返ると、一通り身支度を整えた彼が、遠慮がちに私の前髪を梳いた。
「すまない、その……大丈夫か?」
「えっ、あ、ええと……」
「私に経験がなかったばかりに、君にも無理をさせたのではないかと……どこか辛くないだろうか? 昨夜は平気だと言ってくれたが、まだ痛みは、」
「わ、わー! 大丈夫、大丈夫だからあの、あんまり言わないで……!」
 顔色を窺うように寄せられたルクの顔を、思わず手のひらで覆う。ん、と押し黙った彼はその手をはがして、かすかに頬を赤らめてそうかと答えた。会話の内容もそうだが、声も、掴まれた手も、視線も、今は正直何もかもが心臓に悪い。一晩が明けた相手に言う台詞でもないが、それ以上近づかないでほしい。爆発しそうだ。
「朝食は?」
「いい。それよりもう少し寝てたい」
「分かった。今日は休んだらいい。私から……あー、誰に伝えるのがいいか……」
「テティさんに、こっそり言ってくれると嬉しいかな……適当に、熱があるとか伝えてくれれば、多分みんなには上手く言ってくれると思うから」
 ルクがその伝言を持ってくる時点で、彼女にはごまかせないだろうけれど。でもタリファさんに言うのはお母さんにばれるような気まずさがあるし、もっと言えば黙っていてもばれそうな気もするし、シダさんも何というか、お姉さんに打ち明けるような気分だ。
 その点、テティさんは何とも言えないちょうど良さがある。何度か「どこまでいきました?」なんて率直な質問を受けたこともあるし。感謝と口止めと友情の証として、今度菓子折りでも持っていこう。
 ぐるぐると一人で考えていると、ルクが苦笑した。
「どうしたの?」
「いや、本当はこういうとき、私も休めたらいいんだろうなと思ってな」
「それは仕方ないよ。いじけたりしないから、行ってきて」
 もう少し一緒にいたくない、と言えば嘘になるが、王様が私情で遅刻はできないだろう。でも、と行き辛そうにしているルクの髪に手を伸ばす。シャンプーの匂いは、だいぶ薄れた。
「代わりに、ってわけでもないんだけどさ」
「ん?」
「ここで寝ててもいい?」
 小さな寝室に設えられた広いベッドは、柔らかくて寝心地がよくて、ルクの匂いがする。もう少しここにいたい、と訴えれば、ルクはどこか嬉しそうに頷いた。
「昼食は部屋に帰ってくる。それまでゆっくりしていてくれ」
「うん」
「食堂でもらってくるが、何か食べたいものは?」
「お肉」
「元気で何よりだ。分かった」
 ムードのない会話の終わりに、額にキスが落とされる。びっくりして顔を上げた私の視線から逃れるように、ルクはちょっとはにかんで、ドアを開けた。
「行ってくる」
 うん、と頷く私の髪を、窓から流れてきた風がさらっていく。ひどく眩しい朝がその背中にかかった気がして、私はもぞもぞと布団に顔を埋め、もう一度目を瞑った。



インクワイエット/終


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