番外編‐インクワイエット



◆R15程度の恋愛描写を含む、本編の後日談です。




 毎晩、私の一日は一杯の珈琲を飲むことで終わる。
 ペルシャ風の絨毯を敷いた廊下の先にある、魔界のお城の一室で。質素なドアの向こうに待つ恋人の元へゆく日課は、高校を卒業して、生活の拠点を本格的にこちらへ移した今でも変わらない。
 声紋認証を通り抜け、コンコン、とノックをすると、中から開いていると返事があった。
「お邪魔します」
「マキ。早かったな」
 私が開けるよりも早く、内側からドアを開けたルクは、一目会うなりその顔に綻ぶような笑みを浮かべた。珈琲を二杯のせたワゴンを預けながら、ずるいなあと思う。心待ちにしていたようなこの笑顔を思い出して、ついついシャンプーを急いでしまったなんて言えない。
「適当にかけてくれ。今片づけるから」
「うん」
 テーブルには今日も、書類だの本だのが散乱していた。決して片づけが下手なわけではないのだけれど、ひとつの作業に没頭すると、その間は手をつけたものを散らかしっぱなしにしてしまうのがルクの癖だ。とんとん、と書類をまとめてファイルにしまうのを手伝う。悪いな、と苦笑するルクの髪からも、まだ強いシャンプーの香りがした。
「寒くないの?」
 その肩が、薄いシャツ一枚しか着込んでいないことに気づいて訊ねる。
「それほど……、もしかして少し寒いか?」
「うん。自分の部屋は平気だったんだけど」
 上階であるせいか、はたまたほとんどひと気のない階だからか。初夏の夜だというわりには、気温が低く、涼しく感じられた。薄い部屋着のワンピース一枚で来てしまった私は、思わず両腕で自分の肘を抱えた。
 その肩に、ふわりと暖かいものがかけられる。
「はおっているといい。古いカーディガンで悪いが」
「ルクの?」
「ああ。少し大きいか? 着られなくはなさそうだな」
 ほら、と促されて袖を通すと、ずりおちた肩を上げて一番上のボタンが留められる。開いていた首元がきちんと閉じ、背中のあたりが暖かくなった。
 慣れた手つきで着せられていく、彼シャツ、ならぬ彼カーディガン――私にとっては中々に心拍数を意識せざるをえない出来事だったのだけれど、ルクにとっては案外、そうでもないらしい。下に兄弟がたくさんいた彼にとって、自分の上着を貸してやるような状況は日常茶飯事だったのだろう。ありがとう、と言って袖口に潜った指を出す。
 うん、と笑った彼は、片づいたテーブルの上に二杯の珈琲を並べた。適当といっても、私の席はなんとなく決まっている。テーブルの角を挟んで、ルクの斜め隣。ここが一番、話すのにも顔が見えて、ちょっと手を伸ばせば届いて、落ち着くのだ。
「ねえねえ、お砂糖のトング綺麗になったと思わない?」
「ん? 言われてみれば……」
「昼間、テティさんたちが食器のお手入れしててね。私も一緒にやったんだよ」
 砂糖とミルクを、それぞれにたっぷりと入れて、他愛もないことから話は始まっていく。今日あったこと、耳にした話、訊こうと思っていたこと、まったく関係のないこと。誰にも話さなくていいようなことを、一番大切な人に話す、一日の終わりのこの時間が私にはとても贅沢なものに思えるときがある。
 魔界に来てから早一年。最初は一日の仕事の最後に取っていたこの時間を、いつしか二人、明日の準備やお風呂も何もかも済ませて、本当の一日の最後に持ってくるようになった。
 そうしたほうが気兼ねなく時間を過ごせるし、話が弾んだ日にはちょっと夜更かしをしたりもする。気がつくと二時間くらい経っていたりするから、一杯の珈琲を運んでくるなんて、本当にただの言い訳だ。
 今日も、何となくそんな日になる予感を抱えてお喋りをしながら、私は珈琲を傾けた。ミルクが混じっていくらか丸くなった香りと一緒に、カップを持った袖口から、ルクの匂いがする。
 抱きしめられているみたいだなあ、そういえばルクって、あまり後ろから抱きしめるって柄じゃないけど。
 ふとそんなことを思って顔を上げれば、ちょうど紫の双眸も私を見下ろしたところだったから、カップを置いた手でその袖を引っ張った。
「ね、ルク」
「ん?」
「ちゅうしよ」
「ンッ、ぐ!」
 あ、噎せた。
 タイミングが悪かったか、反省だ。ごめんねと声をかけて背中をさする。頬が赤く見えるのは、照れなのか苦しかったせいなのか。両方かな、と考えながら収まるのを待っていると、ようやく口を利けるようになったルクが、信じられないと言いたげな目で私を見た。
「い、今そんな話ではなかっただろう……!」
「そうだけど、したいなって思ったんだもん。ダメ?」
「だっ、だめとかいいとか、そういう問題ではなくてだな。君はどうしてそう、唐突なんだ」
「……ルク」
 売り言葉に、買い言葉で。話を逸らしたって構わないけれど、できるなら、私は今、キスがしたい。ダメ押しでもう一回袖を引っぱってみると、唸るような声の後に、ふっと視線が逸らされた。そうしてまた、すぐに私へと戻る。
「……そう、まじまじ見るんじゃない」
 潜めた声と共に親指が目尻をなぞったから、私は素直に目を閉じた。斜め隣ってやっぱりいいな、と思う。ほんの少し手を伸ばすだけで、キスだって思いのままだ。
「……へへ」
「な、なぜそこで笑うんだ君は」
「しちゃったね」
 かすかな体温の残る唇で笑いかければ、困ったようにも呆れたようにも見える顔で目を逸らすから可愛い。高校生だった頃から数えれば、もう丸二年。こちらの月日でいえばそれより遥かに長い日数を恋人として経てきているのに、この人は未だに、私が改まって恋人らしい振る舞いを求めると照れを見せる。
 時間はたっぷりあるのだ。いずれ結婚はしたいけれど、しばらく恋人や婚約者といった今だけの関係を楽しみたいという私の要望で、私とルクは今もまだ夫婦ではない。昼間は王様とメイド、それぞれに仕事をして、夜は恋人に戻る。二重生活のような今の状態を、私は結構、満喫して楽しんでいる。

 ふあ、と欠伸が出たのは時計の針が十一時を回ろうとした頃だった。一頻りお喋りが済んで、ふと落ちた沈黙の隙間に。メイドの仕事は朝が早い。その上、体力仕事だから、夜になるとついつい欠伸が出がちになってしまう。一応手でおさえたが、ルクにはばっちり見られた。
「眠いのか。もうこんな時間だしな」
「ちがっ、眠いわけじゃないよ。ちょっと欠伸が出ただけで」
「それを眠いというんだろう。そろそろ部屋に戻るか? 寮まで送っていくから」
 駄々をこねる子供を見る目で、苦笑して立ち上がる。カップを片づけようとするルクの手を引っぱって、私は首を振った。


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