番外編‐タリスの場合
ナハトのルクシオンを、討伐せよ。
騎士団にその王命が下されたのは、それから実に半年後。私が王妃となって、もうじき二年が経とうとしていた頃だった。
「――――……」
かつん、かつん、と夕食時の、人気の少ない廊下に足音を響かせながら、すっかり昔のことになった日々を思い出し、薄く目を伏せる。討伐令から間もなく、城は騎士団によるクーデターに襲われ、長らく続いたディトライドの支配は終わりを迎えた。クーデターは成功したのだ。ただ、実を言うと私は、その成功の瞬間を目に収めてはいない。
騎士団の反乱を確信したディトライドにより、内通を悟られ、地下牢に閉じ込められていたからである。事実、私は騎士団と結託していた。彼に味方はおらず、「タリア」などという架空の女は、とっくに死んでいたからだ。上辺の熱に騙されて、あの晩以降も私を傍に置き続けたディトライドは、よもやタリファが命の危険を冒してまで、自分の行動を騎士団に知らせているとは思いもよらなかったらしい。私は彼の睡眠時間や手回り品、身に着ける防具の位置や所持していると思われる懐剣の数まで、調べられるものはとにかく調べて、魔法によって隠した文書で情報を流していた。
悟られたのは私が、私の一存で、騎士団の城下への侵入を楽にするために、ディトライドに睡眠薬を盛ったからだった。彼が城下でクーデター軍を罠にかける作戦を練っているのを知り、伝達手段がないのならいっそ、私の手で計画を壊さなければと思ったのだ。口づけに盛ったせいで私のほうがわずかに多く飲み、目が覚めたときには地下牢に繋がれて、首にいつでも締め上げられるように縄がかけられていた。
謀ったな、と言われて、笑ったのを覚えている。ディトライドのその言葉は、すなわち彼の計画が、予定通りに運べなかったことを意味していた。頬をはたかれ、せっかくの縄も外れるほどに蹴り倒され、ひどい脅しと罵倒の数々を受けた気がするが、そんなものは気にもならなかった。
間もなく門を破る蹄の音が響き、上層で戦いが始まったのが聞こえた。睡眠薬の効力がまだ濃く残っていて、私は気を失うように眠り、次に目覚めたときには、崩れた壁の隙間から射し込む日が高く昇っていた。
物音が何も聞こえない。
戦いはどうなったのだろうかと起き上がったとき、階段を慎重に下りてくる足音が聞こえて、私は鉄格子に這い寄ってそちらを見た。
「――タリス」
ふ、と目の前が真っ暗になって、回想が途切れる。冷たい手のひらと、やんわりと抱きすくめた腕の感触に、私は足を止めた。
「なんですか、ゼン」
「おや、もう少し驚くかと思ったのですが。声だけで気づかれるというのも、嬉しいような勿体ないような」
さして驚かせるつもりもなかったくせに、くすくすと笑う。彼はあっさりと手を離して隣に並ぶと、等間隔に柱の並ぶ廊下を、どこに行くとも訊かずに歩き出した。
あの日、誰にも知らされず地下牢に閉じ込められていた私を見つけたのは、二人の人物だった。一人は今ここにいるゼン。彼が最初に瓦礫をどけて階段を探しており、目覚めたとき、地下牢に日が射していたのはそのせいだったと聞かされている。
もう一人は、痩せ細った灰色の髪の少年――後の、私たちの主となるその人だった。彼は地下牢に私がいることに気づくと、細い隙間から躊躇いもせず牢の前へ潜り込み、拘束を解いて、私が無事である旨を瓦礫の向こうにいるゼンに伝えた。崩れてしまうかもしれないからと言うと、そうなったとき魔法で庇うために下りてきたんだと言ってきかず、結局私より後になって地下から脱出したのだ。
後で聞いたことだが、あのときの主はディトライドとの戦いで魔力などほとんど尽き果て、到底他人を庇えるような状態ではなかったという。私は地下を出てから初めて、その少年がナハトのルクシオンであることを知ったので、驚きで何も言えなかった。ただ、ゼンが彼の後ろでとても穏やかに微笑んだので、多分、彼にはただ深く礼を述べるだけで良いのだと察することができた。
「声だけで、貴方だと思ったわけではありません」
答えると、ゼンは銀色の目を瞬かせる。
王妃タリアの名を捨てた、あの日から。私は再びタリファと名乗り、メイドとして城に残ることを望んだ。新たな主はまだ王としては幼い頭を悩ませて――あるいは、誰かがそれとなく進言した可能性もゼロではないが――私をクーデター成功の立役者として堂々と紹介し、城に残るならばそれなりの地位をと、メイド長の冠を与えた。
これによって私に染みついていた「ディトライドの后」というイメージは真新しく払拭され、ドレスの代わりにワンピースとエプロンを身に纏い、皆のもとへ戻ることができたのだ。時間は、数えきれないほどある。積み重なる長い日々の中で、たった二年間の私の歴史は、いつしか気に留められることも自然となくなっていった。そして。
「――私のことをタリスと呼ぶのは、貴方だけなので」
時間はどんなものの上にも、等しく緩やかに降り注いでいる。
そうでしたね、と笑ったゼンに未だ行き先を訊ねないまま、私も静かに笑って、月の出に光る廊下を歩いた。
〈ブルーベリーサタン・番外編 タリスの場合/終〉
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