番外編‐タリスの場合


 問いかけの形を取っているが、答えはすでに固まっている様子の銀の眸を見つめて、私は無言を貫いた。頷けば、この話に同意してしまったことになる。恐ろしかった。正気に戻った私にとって、ディトライドに反旗を翻すということは、そう簡単に頷けるものではなかったのだ。
 失敗すれば、命はない。しかし彼の言うこともまた真実で、ディトライドは目障りな野草を、遠くのことだからといって伸びやかに放っておいたりはしないだろう。
「まあ、あくまで噂を事実と仮定した場合の話です。事実であるとすれば、これほどの機会は他にない。計画は、頭の片隅に入れておくに越したことはありません。いつか訪れる絶好の機会を、逃さないために」
「絶好の機会など、本当にやってくると?」
「無論です。ディトライドの足元は、この通りとっくに崩れている。恐怖で抑え込める範囲を、彼は見誤りました。騎士団はもはや、彼の敵対勢力となりつつあります。タイミングさえ間違わなければ、必ず覆せる」
 タイミング。ぽつりと繰り返した私に深く頷いて、彼は意を決したように口を開いた。
「すべての好機が揃うときを、待つのです。いつになるかは分かりません。しかし、急げば犠牲を増やし、兵を無駄に失います。長い時間を待たせるかもしれません。だが、我々も今のままでいようと思っているわけではないことを、貴方には覚えておいていただきたい」
「……なぜです」
「私は、タリア王妃。貴方こそ、ディトライドのいなくなった世界で笑うべき人だと思っているからです」
 暗がりの中で息を潜めて話しているのに、その瞬間、まるで光の中へ連れ出されたような気がした。私を、タリファをタリアたらしめるものの、いなくなった世界。想像して、見開いた目に眩しいものが飛び込んでくる。
 潤んだ膜が階段のシャンデリアのわずかな光を吸い込んでいるのだと気づいて、両目をきつく伏せた私の耳に、ドアの開く音が聞こえた。はっとして振り返ると、廊下の彼方に動く影が見える。
 この最上階に、部屋は一つしか存在しない。
 ディトライドが目を覚ましたのだ。打って変わって蒼白になりかけた私の頬を、冷たい手のひらと、布きれを巻いた手のひらが包んで上向かせた。
「立って。そのまま堂々となさっていてください。狼狽えると余計につけ込まれます」
 失礼、と断って、彼は素早く私がとめたボタンを外す。驚く暇もなく腕が抜かれ、私は借り物の上着を肩に羽織っただけの状態になった。ちょうどそのとき、ディトライドが陰の中から立ち現れた。
 彼は私たちを見ると、重い瞬きを二度、三度して、髭を蓄えた口元を動かした。
「タリア。このようなところで、一体なにをしている」
 ずるりと、魂が冷やされるように背筋が凍りつく。反射的に肩が跳ねあがろうとした瞬間、ゼンが上着の襟に手をかけ、私へ羽織り直させるようにしてそれを隠した。
「ご無礼をお許しください。つい先ほどお目覚めになってから、何やら具合が優れないそうです。ひどくぼんやりしたご様子で出ていらっしゃいましたので、熱がおありなのではと思い、お部屋へお戻りいただいて、メイドを起こそうと思っていたところです。私では、御身に触れて計るわけにはまいりませんので」
「ほう……?」
 ディトライドが訝しむように、跪いたゼンの後ろに立っている私を見る。
 ――なんて滔々と、嘘を並べ立てるのだ。
 動揺のあまり俯いていたのが幸いしたのかもしれない。ディトライドは半信半疑ながら、ひとまずそれで良いと判断したのか、欠伸をかみ殺しながらこちらへ歩み寄ってきた。御身に触れるわけにはいかないだなどと、どの口が言うのか。最初から腕を掴まれたと思ったが、あれはなんだったというのだ。
 体調が優れずに顔を上げられないふりをしながら、私は内心、絶句した。恐れているのなんだのと言いながら、これほど淀みなく嘘を並べるなど、よくできる。ただ意図してかそうでなくか、感謝すべきは私がここにいる理由を、具合が優れないということにしてくれたことだろう。おかげさまで、ろくに口を開かなくともこの場をやり過ごすことができそうだ。
「メイドを三人連れてこい。湯浴みと薬の準備をさせる」
「はい」
 余計なことは何もすまいと思って、私は大人しく、ディトライドに上着を投げ捨てられるがままに、手を引かれて寝室へ戻った。かつて先輩として指導を受けるはずだった年長のメイドたちに、こんな夜更けに湯浴みの手伝いなどをさせるのかと思うと気が引けて仕方がない。眠り込んでいたタリファの感性がすっかり戻ってしまった今では、掴まれた手の先がディトライドであることも、私が王妃として生活していることも、すべてが抵抗感の塊でしかなくなっている。
 ――けれど。
 私はシャンデリアの下を抜ける一瞬、後ろを振り返った。未だ跪いたままのゼンは、暗がりの中ですでに顔を上げていて、その目と視線が重なった。ディトライドがドアを開ける。私はそれを大人しくくぐる。
 タリアとして、もうしばらく待ってみようと思った。はたして本当に、彼のいう「絶好の機会」などというものが、私たちの上に訪れるのかは分からないとしても。


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