番外編‐タリスの場合


「お迎えではありませんか? 今日はいつもより、仕事が少なかったですから。私はこれで失礼します」
「え、でも」
「ちょうど、食べ終わりましたので。お話の続きは、ご本人と」
 空のトレーを見せれば、いつのまに、と言わんばかりに丸くなる目が正直で可愛らしい。妙なところでおおらかな我らの主が、私の姿をみとめて三人で食べようなどと言い出す前に、テーブルを拭いて席を立ちその場を離れた。
 ――あら、お疲れさまです。
 ――今日はこちらでお夕食ですか。
 立場上、彼は歩く道すがら、幾人ものメイドに声をかけられる。だが、彼女たちに共通しているのは皆同じ。
 その人を、一人の青年というよりも、家族あるいは仕えるべき主。
 あるいは、自分たちの親しき救済者として、慕っているということなのだ。


「――そこの女。そう、お前でいい」
 名前も知らずに、顔へ向かって指を一本。たったのそれだけの一仕草で、私は先代魔王ディトライド・ヴェル・キッセンの二人目の妻になった。
 彼の悪政で滅びた村から、半ば人質として、税の代わりに城へ上げられてほんの一週間。一人目の后が無実の罪で処刑を受けた午後の悲しみの、まだ動揺も拭えない、数時間後の夕のことだった。
「名を名乗れ。通称ではない名を」
「……タリス=ファリンデン=ロア」
「……ほう」
 ――死んでしまえば、いいのに。
 心の中でそう願ったのが、顔に出たのかもしれない。ディトライドは新しい玩具を見つけたように、満足げに笑った。ぱちんと、彼の呪文によって髪を結んでいたゴムが弾ける。メイドとして使っていたカチューシャがずり落ちて、睨み上げた私の目に髪がかかった。
 彼はそれをぞっとするほど恭しい手つきで左右に分け、額を力任せに掴んで、婚姻とばかりに口づけをした。周囲が、哀れみで目を伏せていくのが分かった。私の立場が一介のメイドから、歴代最悪と噂される王の、后に変わった瞬間だった。

 その日からというもの、私は王妃として悪夢のような毎日を送ることになった。ディトライドは好色で嗜虐的な趣味を持ち、魔界を制して野心の矛先を失ってからというもの、女を服従させる楽しみを「退屈しのぎ」と言って憚らない男だった。王妃とは公表された、彼の遊び道具のようなものだ。私はもはや、どんなドレスを身に纏ったところで、裸で歩いているも同然の恥を知らしめられているのである。
 城のメイドたちの同情は悲しく、兵士たちが腫れ物に触るように接する姿には尚のこと、自分の立場が異常なものであることを思い知らされているようで苦しかった。無論、彼らにそのつもりがなかったことは分かっている。ただ、目を合わせては失礼だと扱われていることが、すでに自分がひどく汚れて、まともな神経であれば他者と顔を合わせることも辛いだろうと思われているようで、事実、そう思われても仕方のない関係が私とディトライドの間には日々積み重ねられていた。
 私は次第に外へ出なくなり、何に繋がれているわけではなくても、起き上がって部屋のドアを開けようとさえしなくなっていった。メイドが心配して、食事をこっそり食べさせにきてくれたり、彼のいない隙に様子を確かめにきてくれたりした。
 だが、それでも、私を「ここから逃がす」と言ってくれる者だけは、一人として存在しなかった。
 仕方のないことなのだ。ディトライドには誰も敵わない。力あるものが統べるという古くからの慣習が、たまたま生んだ恐ろしい破滅。それがディトライドだった。絵に描いたような強欲な男で、すべてを思いのままに従えるだけの力を持ち合わせている。
 歯止めをかけるには、彼を圧倒する大きな力が必要だ。それがないから、この世界は今、一人の男に支配されて荒れ果てている。
 地上ではこの世界を、地獄と呼ぶことがあるらしい。この上ない苦しみと際限のない罰の世界で、光はなく、永劫に死よりも暗い毎日が続いていく。
 ――その通りだ、と思う。
「タリア」
 彼は私を、他の誰も呼んだことのない名で呼びたいと言った。本当の名はとうに呼ばれたことがあると言った私に、ディトライドが渋々つけた愛称がそれだ。タリファという名はそのときに一度捨てられ、私はタリア王妃となった。メイドのタリファや、故郷にいたタリファを別人のように懐かしく思う。赤の他人だと思わなければ、自分自身を保つことができなかった。
 私は私の中に、タリアを飼う。被虐的で好色な、魔性の王妃を創り上げていく。
 ディトライドはその「架空の女」を、いたく気に入ったらしかった。正確には、自分があの反抗的なタリファを、ここまで作り変えたということが喜びだったのだろうが。嗜好は一昼夜で変わるものではなかったが、少なくとも彼は格段に機嫌をよくし、代替のきく玩具だったはずの私は、それなりの価値を見出された扱いを受けるようになっていった。
 服と呼べるドレス、傷のない肌、歩きたければ外を歩ける靴。数ヶ月間、私から失われていたものを、ディトライドは私の服従と引き換えに返してよこした。それは虐待を受けた子供が一瞬の愛情を喜ぶような華々しさでもって、私の心に印象づけられた。


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