番外編‐タリスの場合


「私って、ルクにとって物足りなくないのかなあ」
 昔のことをずいぶんと久しぶりに思い出したのは、夕食時、珍しく二人でテーブルを挟んでいた彼女の、そんな唐突な言葉がきっかけだった。
 マキ。不運な偶然からこの世界に転がり込んだ、人間の少女。最初の頃こそ戸惑っていたものの、元来の明るく人懐っこい印象が手伝って城に溶け込み、今となっては城主というべきかこの世界の主というべきか、はたまた私たちの主というべきか、この魔界の王の恋人という肩書も持つ。地上での学業の合間をぬって魔界へ降りてくる生活にもすっかり慣れた彼女は、ここへ来るたび善行を積まないと帰れないことにも文句をこぼさず、二つの世界を往復しながら、いつも笑顔に溢れていた。
 そんな彼女から飛び出した、思いもよらない発言は、私のフォークを止めさせるには充分だった。
「なぜ、そう思うのです?」
「んー、だってさ……」
 訊ねると、自分でも考えを言葉にまとめきれていないように苦笑する。
 物足りないのかな、ではなく、物足りなくないのかな、という問い方から察するに、それは恋人の発言から生まれた悩みではなく、彼女自身の中から、何らかの考えによって生み出されつつある疑問だろう。第一、私の目に映る限り、我らが主はこの少女に物足りていない様子などない。誰の目から見ても、恐らくそうだ。彼が彼女に「物足りない」と取らせるような不満を口にしたとは、到底思えない。
「以心伝心、できないっていうか」
「はい」
「ここの人たちって、みんな長生きしてるじゃない? ルクのことも、私なんかよりずっと色々分かってあげられてるでしょ」
「……」
「私は、まだ皆に比べたら全然ルクのことを知らないと思うの。だけど恋人で、こっちに来れば一番近くにいる。このお城で一番つき合いの浅い私がそういう相手で、ルクは面倒くさかったり、つまらなかったりしないのかなって思って」
 言葉にされれば彼女の悩みは、たった一言で片がつくものではないかと分かった。
 ――本人に、それをそのまま伝えてみてはどうですか。
 自信を持ってそう言えるのは、彼女の問いかけに、我らの主は相当慌てふためいて、行き違いを起こすまいと必死になるのが目に見えているからだ。物足りない――地上とここでは時間の流れが違いすぎるせいで、なかなか会えないことに関しては寂しいと思っているのだろうが、それを補って余りある相手だからいつまででも待っていられるのだ。
 要は彼女の、杞憂にすぎない。
「つまり、自分よりルク様を理解している者が大勢いるのが、不安だと」
「そ、そこまで言ったわけじゃ、」
「違うのですか?」
 無用な、たった一言で片づく心配事だ。そう思うのにその一言で済ませてしまおうとしなかったのは、私もなかなか、彼女に対して友人としての情を深めているからか。
 うっと言葉に詰まって、だって、と拗ねたようにうつむいた横顔に、思わず笑ってしまいそうになるのを堪える。多分、もどかしいのだろう。自分がどれほど頑張っても追いつきようのない年月の差が、私たちと、私たちの主との間にあるのが。
 そうですね、と考えてフォークを動かし、口を開く。
「お気持ちは察しますが、何でも知っていることは、愛情においてそれほど優先順位の高い条件でしょうか」
「え?」
「私は、そうは思いません。私たちは確かにルク様と長い月日を共にして参りましたが、それ故に、本当にお若い頃から傍で見すぎていて、あの方を血の繋がった家族のように感じております。何でも知っておりますから、今さら驚かされたり、新鮮に思ったりすることは互いにありません。……発見のないところに、男女の思慕は生まれないものと思います。大人になってから出会った貴方だからこそ、あの方を愛せるのではありませんか。親兄弟はどれほど分かり合っていても、恋の相手にならなくて、ろくに知らずともどこかの誰かのほうが自然に愛せることと同じかと――……どうなさいました?」
 スプーンを口にくわえたまま、彼女があまりにぽかんとした顔をしているのに気がついて、私は訊ねた。温かいスープが冷めてしまう。そう言おうとした私の顔をまじまじと見て、彼女はどこか輝いた目をして口を開く。
「なんか、タリファさんがこういうこと言うの、初めて聞いた」
「そうですね、私も滅多にする話ではありませんが」
「もしかして、心配かけました?」
 返事をせずに微笑めば、彼女はごめんなさいと言って恥ずかしそうに笑った。
「成長を見続けてきたものへの情と、大人になってから出会ったものへの情は別のものです。マキさんの存在と私たちの存在は、ルク様にとって、まったく比べる次元の違うものだと思いますよ」
「タリファさん……」
「……それに。多分、この城の多くの者にとって、あの方に抱けるのは恋慕というより――」
 ふと、にわかに食堂の入り口が騒がしくなった。顔を上げて、おやと瞬きをする。噂をすれば、銀色の長い髪が数人の兵士の向こうに見えたところだった。一人がこちらのほうを指さして、何か話している。


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