番外編‐タリスの場合


 私は、次第に身も心も「タリア」であることを受け入れ始めていた。過去の私は捨てられたのだ。王妃の私こそが、今の私。私はディトライドの暴力か狂気と紙一重の遊びを愛と呼べるようになり、彼もまた、私の前では酒を飲んで眠るような隙を見せるまでになった。
 夜半に起き上がり、ふとその顔を見下ろして思う。
 ――今なら、望みを遂げることができるのではないか。
 タリファが囁く。殺してしまいなさいと。私の中で赤の他人として切り離したつもりの懐かしい人格が、無防備な暴君を前にして、私の本当の心として甦ってきたのだった。私は認めないわけにはいかなかった。「タリア」はこの瞬間のために、私が創り上げた真っ赤な嘘だったのだと。
 あれが愛。馬鹿なことを。
 これが愛。笑止千万だ。
 架空の「タリア」という人格に守られて息を潜めていた私の心は、私が思う以上に、蹂躙されてなどいなかったのだ。
 室内を見回したが、手にできるものは何も見当たらない。ディトライドを起こさないよう、ベッドをすり抜けてネグリジェ一枚で部屋を出た。真冬の夜だが、寒くはなかった。体中の血液が滾るように熱く、心臓がどくどくと高揚しているのが分かる。私が、私の本当の心が、歓喜と恐怖、興奮と爆発しそうなほどの緊張に膨れ上がっていた。
 最上階の一本道になった廊下を駆け抜けて、シャンデリアが煌々と燃える階段に足をかける。そのときだった。
「――どこへ行かれるのです」
「え……っ」
「タリア王妃。このような時間にお一人で、何をお急ぎですか」
 光の隅の暗がりから、影のように現れた男に腕を掴まれた。全身を黒い騎士の制服に包まれた男で、髪までが黒い。大きな柱の落とす影に紛れていて、見張りがいたことに気づけなかった。頭の芯がひやりと冷静さを取り戻しかける。
「……離して。私を誰だと思っているの? 無礼はやめなさい」
 だが、私の逸る心はそんなわずかな冷や水では冷ませず、口をついて出たのはそんな、半ば脅しのような言葉だった。
 男は銀の目を細めた。そして一瞬、逡巡するような顔を見せたが、やがて意を決したように私の腕を掴む手の力を強くした。
「なりません。なぜなら貴方は、タリア王妃ではない」
「……っ」
「そうですね。……タリス=ファリンデン=ロア」
 息を呑んで逃げ出そうとする私の気配が伝わったのだろう。男は離せと叫びそうになった私の口を押え、苦々しい表情になった。その顔を見た瞬間、私は少し正気になった。
 掴まれたまま、逃れようと振り回した腕を見下ろす。明らかに彼のほうが、無理のある捻り方をしている。壁に押しつけられた体は、息苦しいが痛くはなかった。危害を加えまいとする、明確な意思がそこに感じられた。
 自由な片腕で、その肩をそっと押し返すと、口元から手が外される。逃亡の意思が私から消えたことを、彼も察したようだった。
「なぜ、今の私を行かせてはならないと思うの」
 ぽつりと訊ねると、男はついに私の腕からも手を離した。
「こんな夜に、ネグリジェ一枚で靴も履かず、血相を変えて走っている方が、まともな理由で階段を下りていくとは思えないからです」
「……ごもっともね」
「どうぞ、大して温かい服でもありませんが。そのようなお姿の貴方といるところをディトライド様に見つかって、首を刎ねられたくはありません」
 彼がよこした制服の上着を、私は受け取ったが、すぐには羽織らなかった。どうしました。怪訝な目をして、男は訊ねる。平気で目を合わせてくるところを見ると、どうやら本当に、ディトライドが起きてきた場合を警戒しているだけらしい。
 私は彼の左脚の向こうに、私のまさに探しにゆこうとしていたものがあるのを見つけて、思わず口を開いた。
「恐れるのなら、なぜ今、その剣で彼を殺してくださらないの」
「……貴方は、それを本気でなさるおつもりだったのですか」
「そうよ。剣も力もないけれど、これ以上は我慢ならない。剣を貸しなさい。それか、私を見逃して。いかなる魔力を持っていたって、心臓を貫かれれば無事では済まないでしょう。一階へ行かせてください。どこかから、ナイフを見つけてこさせて」
 本音が口をついて零れるたび、王妃として創り上げた口調が私から剥がれ落ち、タリファがこの身に戻ってくる。再びあの、焦がれるような「殺せ」という激情が胸を焼いた。
 今なのだ。この激情が恐怖心を燃え盛る憎悪で隠してくれている、今しかできない。ディトライドに逆らうなど、正気の沙汰ではないことは承知している。この高揚が冷めてしまってからでは遅い。正気に戻りきってからでは、多分恐怖で、そんなことはできない。
 ナイフ一本で敵うなど、本気で思っているわけではないのだ。


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