]T.甘い果実の堕ちる場所


 一週間という時間を踏みしめてきた私と、十年間という時間を飲み続けてきた彼の、ばらばらに動いていた歯車がようやく速度を合わせて噛み合ったような。そんな音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
「地獄に堕としてしまおうかと思うほど、待ち焦がれた」
 返す言葉を探して口が開くよりも早く、体を支えていた腕を引かれて、私は驚きに声を上げた。視界があっという間に、黒一色に包まれる。引きずり落とすような抱擁にその色は相応しく、真っ暗闇の中で瞬きを繰り返した目を、私はやがてそっと閉じた。
 耳元でかすかに笑った声がする。とっくに足が動くようになっていることにも気づかず、信じられないやら心地いいやらで、私は混乱する気持ちの整理がつけられずにただそうして固まっていた。心臓が鋼のように甲高い音を立てている。どきどきなどという愛らしい表現ではなく、もっと金属の打ち鳴らされるような、強く響く音が。
 ぎゅっと目を瞑っていると、初めは小さかったその音はだんだん大きくなってきて、歯車ほどの響きから、ガチャンガチャンと走るように――私ははたと、自分の胸に手を当てて顔を上げた。
「あの、ルク?」
「うん?」
「……なんかすごい、足音っぽいの聞こえる……んだけど」
 なんだか本当に、金属の音がしている。遠くで聞こえていたと思ったその音は、次第に数と激しさを増しながら近づいてきていた。いくらなんでも私の胸は、そんなに高らかに鳴らない。
「まあ、それは……そうだろうな。これだけ大きな音がすれば」
「え」
 ルクがちらと、視線を横に向ける。そこには私が放り込んだキャリーケースと、同じく私が突き飛ばした椅子が、折り重なって倒れていた。
 さあっと、顔から血の気が引く。
「数からして、たぶん見張りが騎士団を呼びにいったんだろう。三十……いやもう少しいるか……?」
「え、ちょ、待って。それは」
「心配しなくても、捕えられはしない。彼らも君のことは覚えているだろうし」
「いや、違うって! まずいのはそっちじゃなくて、この――」
 状況だよ、と、言おうとしたとき。
「ご無事ですか!」
 怒号のような叫び声と共に、執務室のドアが勢いよく開けられた。銀色がぎらりと反射して、鎧に身を固めた騎士が雪崩れ込んでくる。
 彼らは槍を掲げて隙間から次々と室内へ飛び込み、中ほどまで走り込んできて――私たちを見て、その足を止めた。
(あ、終わった)
 あと五秒、いや三秒間に合わなかった。ドアが破られる前にルクから離れて彼を起こそうとしていた私は、不覚にも慌ててよろめいたせいで、ルクの上で彼らを出迎える形となった。完全に、こちらから押し倒して襲った図である。
「ルク様……これは一体……」
 半ば起き上がろうとして転んだだけに、先ほどよりもだいぶ大胆に抱きついた状態で、駆けつけた騎士さんたちに動揺が広がっているのが分かる。最前列で口を開いた声に、覚えがあった。ゼンさんだ。どうやら彼らも本当に、私を覚えているらしい。どよめいているが、一向に攻撃される気配はない。ただただ、明らかに対応に困っている空気だけが流れていく。
 侵入者の次は、痴女疑惑だろうか。おまわりさん、どう見ても私です。何度、ゼンさんたちにお世話になれば気が済むのだろう。
「あー……そうだな。なんというか……」
 羞恥のあまり動けずにいる私と、彼らの間の妙な沈黙を破ったのはルクだった。彼はほんの一瞬、ちらと私を見てから、吹っ切れたように引き寄せて言った。
「騒がしくてすまなかった。――この通り、妃の凱旋だ」
 苦笑まじりのその言葉に、騎士さんたちが息を呑む。彼らはそれから一斉に、わあっと声を上げて盛り上がった。様子を察知してか、メイドさんたちがばたばたと集まってくる。彼女たちは騎士の鎧の間から私の姿を見つけると、色とりどりの目をこれ以上ないほど丸くして歓声を上げた。
(今、なんて……)
 先ほどまでの沈黙が嘘のように騒がしくなった部屋の中で、私はそのざわめきさえほとんど耳に入らず、たった一言、ルクの言葉を頭の中で繰り返していた。
 妃。
 確かに、彼はそう言った。聞き間違いでも何でもなく、誰より近くで聞いていたのだ。
 それはつまり、私は告白の答えを喜んでもいいということだろうか。顔を上げると、メイドさんたちが「お帰りなさいませ」と笑った。騎士さんたちは皆、槍を下ろして互いに笑い合っている。そして。
「……見るなっ」
「まだ見てないよ!」
「見なくていい」
 ルクは見下ろそうとした私の頭を、焦った様子で抱き込んだ。間髪入れずに拒否されて、ぐっと言葉に詰まる。珍しく本気で見られるまいとしているのか、押し返しても余計に力を入れられるばかりで、弛めてくれる気配がない。
(本音かどうか、確かめたいだけなのに)
 ふと、そう思って身じろぎをしたとき、私は人々の声に紛れてすぐ傍で聞こえている音に気がついた。真っ黒いローブの、羽根飾りのすぐ近く。左の胸に片耳を当てて、思わず笑ってしまう。
 言われた私より、言ったほうの心臓がよほど煩いなんて、なんて照れ甲斐のない。
「ねえねえ」
「ん?」
「あのね、ルク」
 肩を叩いて話をしようとすれば、彼はようやく私の頭を押さえていた手を離して、まだ赤みの差した顔に平静を繕った。それだけでこんなにもすべてが信じられると思うのだから、私もすっかり堕ちたものだ。
 一度そう認めてしまうと、あれほど悩んだことなど嘘のように、何だっていいやと開き直れるから恋とはすごいものだと思う。
「――ただいま」
 紫の眸が、驚きに見開かれる。
 あのとき告げ損ねた想いを、時間も、世界も飛び越えさせるように。私はルクを引っ張り起こして、その頬にキスをした。



ブルーベリーサタン/fin.



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