]T.甘い果実の堕ちる場所


 居心地悪く視線を逸らした私に、ルクがぽつりと訊いた。
「転送は、無事に成功していたのか?」
「え?」
「門の狭間にいたわけではなく、一度、地上へ戻って? それから、また戻ってきたのか……?」
 狭間、というのがどこのことか、先ほど通り抜けてきたばかりの私はすぐに思い当たった。魔界から地上へ出るときにも通った、あの霧の中のような場所のことだ。
 よもや、自分が転送に失敗したせいで、私がそこから再び返されてきたとでも疑っているのだろうか。おかしくなって笑ってしまってから、私は「そうだよ」と頷いた。
「当たり前でしょ? 失敗してたら、こんな元気でいるはずないじゃない。転送は完璧だったよ。おかげさまでちゃんと家にも帰ったし、またここに来たのは私の意思」
「そんな……、君は家に帰るために、ずっと頑張っていたんじゃないか。せっかく帰れたものを、どうして……!」
 魔法の失敗だとか、門の誤作動だとか。不可抗力によって来たわけではないことをはっきり告げると、ルクは珍しく声を荒げて、私の言葉を遮った。
 どうして、なんて。訊かれることは承知の上だ。理由もなしに世界を飛び越えるほど、私は怖いもの知らずではない。怖じ気づく理由は星の数ほどあった。「行かない」選択が幸せだったのだと、思い知る想定を何度も繰り返した。
 人がそういう負のイメージを一思いに越えられるのは、何もかもに盲目になるほど、強い気持ちを抱えたときだけだ。
「会いたかったから」
 地上へ戻ってからずっと、誰にも打ち明けられなかった言葉は、口にすれば驚くほど単純で短いものだった。
「会いたかったからだよ。元の世界に戻れたのに、嬉しいのに、なんか私だめなの。幸せなはずなのに、満足できないの。冷静になれば元通りになるんじゃないかって、毎日頑張ってみたけど全然変わらないし」
「マキ……?」
「誰といてもちょっと寂しくて、気がつくと苦しくて、忘れられる気がしないの。――認めたくないけど、好きになっちゃったの、ルクが!」
 世の中の人たちは、どうしてこんなに恥ずかしいことを、もっと優しく、そつなく口にできるのだろう。人生初の告白を半ば逆上するような叫びで果たした私は、未だに腰が抜けているせいで、火が出そうな顔を両手で隠すこともできずルクを見据えた。体を支え続けている腕が、小刻みに震えている。指の先までかすかに赤いことを、体重のせいにして目を逸らした。
 何か言ってくれればいいのに、ルクは何も答えず、呆気にとられたように私を見上げている。返事があまりに返ってこないので、だんだん考えが悪いほうに向かってきた。
 相手の気持ちに確証もないままこんなところまでやって来て、馬鹿だと思われているのだろうか。恩知らずと思われているのだろうか。一度は帰した労力と協力を、無下にしたと思われているのかもしれない。
 火照っていた顔が、今度は冷たくなっていくのを感じた。ここに来る前、後ろ向きになってぐずぐずと連ねていたどうしようもない不安が、勇んでいた心を圧迫して今さら膨れ上がってくる。最たる不安であった「そもそも、忘れられていたら」ということに関しては杞憂だったようで安堵したが、他人の気持ちに関しては、その口から直接聞く以外に確かめる方法がない。
 共に過ごして、本当は何度か、少しは特別に思われているのではないだろうかと期待もした。「そういう人だから」と打ち消してきたのは、そう思い続けて向かい合っていなくては、いつか帰るとき、その存在が碇になって自分を苦しめると気づいていたからだ。
 重りになるくらい惹かれていることを、本当は分かっていた。最後まで見て見ぬふりをしようとして、結局は判断を貫くこともできずに、帰ってきた私をどう思っているのだろう。怒られるのは覚悟の上だけれど、突き放されるのはきっと辛いな、と思った。突き放されて、それでもまた事務的にここで面倒をみられたりしたら、尚更辛い。
 受け入れられないのなら、できるだけ遠くへ放してほしい。沈黙に心の中でそう願ったとき、ずっと黙っていたルクが、私の顔に手を伸ばした。
 頬、こめかみ、顎、髪と、輪郭を確かめるように辿る。触れるというよりもそれはまるで、目に見えるものが本当にそこにあることを確認しているような、そんなたどたどしい指先だった。
「……地上で君が、何日を過ごしたか知らないが。その間に、魔界では膨大な月日が流れた」
「うん。私のこと、覚えてた? 顔見て、分かった? ルクは……あんまり変わってないね。私と同じ、一週間くらいしか経ってないみたいに見える」
「ずっと前に、話しただろう。時間の流れや、体にかかる重さそのものが違うんだ。十年かそこらでは、姿かたちは変わらないし、記憶だって薄れないさ。……だが、本当に」
 するりと、頬に当てられていた手が離れていく。抑揚の少ない、淡々としていた声は、けれど想像したよりはずっと穏やかで、話していくうちに私の知る彼の口調を取り戻していった。十年という歳月がその身に流れたとは到底思えない、私を地上へ見送ったときとほとんど変わらない姿で、ルクは幻でも見ているように私を見る。
 唯一、その眼差しだけが、私に彼の過ごした年月を伝え聞かせてくれる変化だった。
「長かった。……まったく、たかが十年くらい、以前は転寝のように過ぎていくものだったのに。君と離れてから、永遠にも思えるほど長い間、君が最後に残していった口づけの意味を、期待しては忘れようとして生きてきた。会いたくて、一目会ってあのとき何を言おうとしていたのか、確かめたくて」
 ふ、と、彼は懐かしむように笑った。その光景に、いつぞやのコーヒーの攻防の果てに、同じような状況になったときのことを思い出して目を見開く。視界に散らばる灰色の髪も、それを映している私の眸も、何もかもがよく似ていた。


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