]T.甘い果実の堕ちる場所


 出かけてくる、とだけ言い残して、父と母のいない時間帯を狙うように大荷物を抱えて出ていった私を、兄はいつもの調子で「おう」と見送った。行き先を訊ねられなかったことに、とても感謝している。どうせ分かっているだろうが、明確に口にしてしまったら、私は試みても向こう側へ行くことができずに帰ったとき、ちょっと出かけただけという強がりさえも言えなくなるのだ。
「……よっし」
 ふう、と深呼吸を一つして、キャリーケースを両手で掴む。〈考える人〉と目が合って、私はかすかに笑った。失敗したらごめんね、と心の中で彼に詫びて、ここまでと書かれたプレートを無視し、階段を一気に駆け上がる。
 平日、正午。退屈そうに休館日の入り口を守る警備員が、背中を向けたその一瞬に。私は力ずくで持ち上げたキャリーを、〈地獄の門〉へ振り下ろした。
 硬い車輪のついたキャリーが、重力に任せて真っ直ぐに〈地獄の門〉へと向かっていく感覚に、ぎゅっと目を瞑る。会いにいけない理由なら、本当はいくらでも見つけることができた。何のために帰ってきたのかだとか、行って、今度こそ帰れなかったらどうしようだとか。そんな簡単に行き来していい世界ではないのだとか、行って、私はどうしたいのだろうだとか。
 でも、すべては一つの感情の前に、降伏することを選んだ。
(――お願い、開いて!)
 荒れ狂う嵐を裂く風のように、鋭い叫びが胸の内を駆け抜けた。世界を飛び越える方法など、私はこれしか知らない。あのときは偶然だったが、今度は故意だ。上野に着いたときからずっと、冷や汗が首を伝っている。どうか上手くいってほしい。どちらにしてもこれで駄目なら、私は今度こそ、こんなことをした罪悪感でまた門をくぐれるだろう。
(ルクのところへ、堕として!)
 バンッと、何かが勢いよく開け放たれる音が聞こえた。

 指先を離れたキャリーケースが、前方を回転しながら飛んでいる。
 風も音もない霧の中のような空間を、私は漂っていた。
 温い空気が充満している。あ、と上げたつもりの声は声にならず、逆に空気を吸い込んで胸がいっぱいに苦しくなった。
 顔を顰めて、キャリーを掴もうと腕を伸ばす。

 その瞬間、強烈な風の渦が私を引き寄せて、体が霧の中から眩しい光の底へ連れ出された。

「――あ」
「え?」
 目を開けたときには、すでに万事、手遅れだったのだと思う。逆さになって空中で見たものは、灰色のつむじだった。頭の上にそれがあり、足元に天井がある。たくさんの紙と、まだ乾ききらないインクの匂い。
 一瞬、私はそこで静止したかのように思われた。掴みきれなかったキャリーが、一足先にごとんと音を立てて着地する。真下にいた人が、驚いたように上を向いた。
 途端、私の体は人間であったことを思い出しでもしたかのように、がくんと大きく傾いて浮力を失った。
「きゃあああああ!!」
「な……っ!?」
 すべてがスローモーションのように動いていた、たった今までの時間を取り戻すように、私はまさしく落下といった速度で天井から離れていく。何が起こったかなど到底理解できないうちに、はっきりと見えていた景色が大きく滲み、視界が灰色に染まっていた。
 突っ込んでいった頭のすぐ横で、叫ぶような声が聞こえている。その声は空中で弧を描くように引き伸ばされながら、私の衝突のスピードを受けて加速し、傾き、叫び声の主が床に叩きつけられたことで止まった。
 ばふんと、私は一度大きく弾んで、柔らかい着地をした。ぐっ、とも、うっ、ともつかない、潰れた唸り声が体の下で上がる。
 背中に何か、軽いものが当たって手元へ落ちてくる。近すぎる視界で見たそれは、古そうな羽根ペンだった。
「な、なん……っ!?」
 強かにぶつけた鼻を擦って、よろりと体を起こす。膝をついた絨毯の色、傍に倒れた椅子の形、図書館よりも事務的で、職員室よりも落ち着いたこの空気。ぐらぐらする頭がそれらをすべて「覚えている」と訴えて騒ぎ、心臓の音をこれ以上ないくらい速めていた。分かる。私は知っている。この場所を、とてもよく。
「――ルク!」
 ここは、あの執務室だ。
 顔を上げて、落下してきた私の下敷きになったまま、呆然と見上げている人の姿を確認した瞬間。私は両目いっぱいに笑みが零れるのを堪えきれず、ごめんねと言うことも、ひとまず退くことも忘れて、嬉しさに弾む声で言った。
「ただいま!」
 灰色の髪の隙間から覗く紫の眸が、みるみる意識を取り戻したように見開かれる。瞬きもなく、頷くでもなく。彼は一度、声にならない息を短く吐き出して、掠れた声で「マキ」と呼んだ。
 うん、と笑って頷く。石膏のように動かなかった彼の目が、ようやく大きく瞬きをした。
「本当に、君なのか。なぜ、どうしてまたここに……」
「帰ってきたの」
「帰って?」
「うん、〈地獄の門〉をくぐってね。一か八かで、どこに堕ちるかも分からなかったから、知らないところに出ちゃったらどうしようかと思ったんだけど」
「……っ」
「ルクのところ! って念じてたおかげかな? ちゃんとお城の中に来られてよかったあ。魔界で迷子になっちゃったりしたら、笑えないもんね。……あははっ、ごめん、実は結構怖かったっていうか、安心したら腰が抜けちゃって、立てない――」
 不安を数えればきりがなかったから、怖がるのはそのときになってからでいいと自分に言い聞かせてここまで来たが。城の外に堕とされてしまったら、それこそ元の世界にも戻れず、ルクにも会えずにおしまいという可能性もゼロではなかった。情けない話だが、想像したら今になって震えがきてしまい、足に力が入らない。


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