].帰還


「ルク!」
 息が継げるようになると同時に、顔を上げて無意識に叫ぶ。金の繭が私たちを囲むように伸び上がり、ぱあっと弾けた。足元の揺れが収まっていく。取り残された七色の光が、散り散りになって天井へ向かっていく。
「貴方を信じてなかったから、魔方陣が崩れたんじゃないの。今のは私、私が……!」
 声が途絶えて、その先は言葉にならなかった。形を成せなかった息が透明に、焦る私の唇の形だけを持って零れる。爪先が透けるように消えていくのが見えた。髪の先も手の先も、あっという間に光に包まれて見えなくなっていく。
「――――……」
 戸惑うルクの首に腕を回して、私はその頬にキスをした。
 いっぱいに見開かれた紫の眸を覗いて、最後まで伝えきれなかった言葉の代わりに微笑む。

 突風が、突き抜けるように体を押し上げて、魂もろとも私の全部が風になる。そんな心地がした。

 ――夕焼け小焼けの音楽が、どこからともなく流れてきている。五時を告げる淡々としたメロディーと、その郷愁に無関心に重なる、横断歩道の青を知らせる電子音。
 車の行き交う音が途切れて、代わりにざわざわと足音が溢れかえった。人の声が聞こえている。一人二人でなく駅に出入りする人々の、深夜、テレビに映る砂嵐のような忙しない声が。
「……っ!」
 がばっと、私は目を開けると同時に、倒れていた体を跳ね起こした。視界がすぐには明瞭にならず、何度か瞬きをする。眩しいオレンジが、足元を照らしていた。見上げれば、ちょうど日が沈んで間もない様子の、燃え上がるような橙と紺色の空が広がっている。
 生垣に当たるオレンジの残光を呆然と見つめていると、向こう側を数名の人が笑いながら通っていった。深い緑に隠されて、私の座り込んでいる場所はちょうど見えない。人気の少なさと、背後から落ちる四角い影に覚えがあって、私は風に吹かれた髪が頬にまとわりつくのも構わず、後ろを振り返った。
 そこには、あの〈地獄の門〉が、しっかりと閉ざされた姿で佇んでいた。
「うっそだあ……」
 震える声を絞り出したのは、何かを言いたかったからではなく、この光景が現実であることを確かめたかったからだ。空気が喉を通って声になり、宙に出ていって消えるまでを聞き届ける。頬を抓って、それから少し髪を引っ張った。山手線の発着を告げる上野駅のアナウンスが、ぼんやりと聞こえている。
 帰ってきた。
 心臓が痛いほどに、強く脈を打った。ぎこちない指で、爪先を触ってみる。体はどこも透けてなどおらず、私の周りには金色の光も唸るような風もなくて、しんと静かだった。〈地獄の門〉の中央では、〈考える人〉が無言でこちらを見下ろしている。あの世界へ行く前に見た上野の景色が、そこにあった。
「私……、帰ってきたんだ」
 開いた口から、自然とそんな言葉が漏れた。震える手でコートをはたいて、空を見上げる。
「は、あははっ、本当に帰ってきちゃった。あんなポイントカードだの、魔法だので」
 日は落ちているというのに、地上の空はまだまだ、魔界の朝と同じかそれ以上に眩しかった。千切れて散らばった雲の間を、飛行機が真っ直ぐに飛んでいく。いつも通りの、私の知っていた夕暮れが広がっていた。本当に、嘘みたいだ。笑いながら、足元に転がっていたバッグを引き寄せて、携帯を取り出す。
 ディスプレイの日付は、一日さえ動いていなかった。私が上野を訪れた「今日」の日付のまま、時間だけが十七時を回っている。
 着信が数件と、メールが何通か入っていた。ほとんどは待ち合わせをしていた友人からのものである。メールを開いてようやく、そういえば彼女と約束があってここに来たのだということを思い出し、四時間分の連絡を流し読んだ。
 遅刻を謝る内容で始まったメールは、時間を追うごとに待ち合わせ場所へ来たという連絡へ変わり、どこにいるのかという問いかけに変わり、最終的には自分も帰るというものになって終わっていた。最後の連絡は一時間ほど前だ。その後に一件、電話が入っていたが、メッセージは特に残されていなかった。
 携帯電話を、バッグに押し込んで顔を上げる。友人からの連絡は、どこか遠い場所の話のように、私の上を現実味も重さもなく滑っていき、深くは残らなかった。鎖骨の間で何かが揺れて、指でなぞってみる。小さな石を下げたチェーンの感触が、さらさらと冷たく肌を流れた。
 は、と喉の奥から、笑いが込み上げてくる。人気のないのを良いことに、私は吐き出すように笑って、もう一度、口を開けたまま空を見た。
「本当に、帰ってきちゃったんだぁ……さすが、魔王さまって感じ?」
 信じられないや、と。心の中でぼやいた声に、生垣の向こうから聞こえてくる青信号の音が重なる。ざわめきに背中を押されて、後から後から実感が湧き上がってきた。ともすれば夢を見ていたのではないかと思えてきそうなくらい、上野の賑わいは昼下がりと変わらない。当たり前だ。この世界は、四時間しか経っていないのだから。私だけが、何十倍もの時間を過ごしてきた。地上はその間、たったの四時間しか移ろっていなかった。


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