].帰還


「あの、ルク」
「うん?」
「今日まで、ありがとう。皆にも、元気でねって伝えておいて」
「ああ。君も達者でな」
「もちろん。……貴方もだよ」
 背中を押されて魔方陣の上へ向かう前、私はルクを見上げてそう約束をねだった。心なしか真面目な顔で微笑んで、彼はしっかりと頷いた。永遠にも等しく思える月日を、誰もが生きているという魔界で。変わらずに居続けることは難しいのかもしれないが、遠く離れた世界から、私も願い続けている。彼の治める穏やかな時代が、末永く続いていることを。
 両足が魔方陣の中心に立った。金色の光が私の姿かたちを確かめるように、ふわりと柔らかく全身を囲んでいく。両手の指の先が、金の糸で包まれたように輝くのを眺めていた。苦しいのはただ、愛着の湧いたこの場所を離れるのが寂しいからだろうか。きっとそうだ。
 魔方陣の外に立って、向かい合うルクは迷いのない手際で呪文を唱えていった。聞き取れる言葉も、知らない言葉も混ざっている。呪文が一息に唱えられるたび、私を包む光の繭は緻密さを増していくようであった。糸が厚くなるごとに、輝きも強くなる。
 織り重なっていく記憶のようだ。
 感傷的にも、そんなことを思った自分に驚いた。以前の私が聞いたら、大げさで馬鹿馬鹿しいと内心呆れそうな考えだ。変わったな、と思った。家族も友達も、学校も、あらゆるものから切り離されたこの四ヶ月は、私の中に何らかの変化をもたらしたのかもしれない。水が一滴、持ち込まれて大地に染み渡るような、嫋やかな変化に思えた。外から見たら些細で分からない程度のものかもしれないが、私にとっては、きっともうその水は、地下水のように枯れることなく奥底を巡るものになっているのだ。
(長い四ヶ月だった――いや、短かったのかな。どっちだろう)
 浅く瞼を下ろして、駆けるように過ぎたようにも、一歩一歩踏みしめてきたようにも思える魔界での日々を思い返す。変な気分だと、一人笑った。私はここから進むのではなく、在るべき場所に生き返るようなものなのに、何を懐かしんでいるのだろう。地獄をこれほど親しく思える人間なんて、地上をすべて探してもきっと私くらいしか存在しない。
「マキ」
 呼ばれて、瞼を上げる。促すように、ルクは微笑んだ。
「思い浮かべるんだ。君の一番、帰りたい場所を。強く」
 声が呪文のように、鼓膜を震わせて記憶を揺らす。考えるよりも早く、脳裏に自宅のリビングが浮かんだ。明るい色のフローリング、父の愛用するソファー、テレビ台と新聞ラックが並ぶ一角、窓際のカレンダー。四ヶ月の間にぼやけてしまったとばかり思っていた景色は、私の奥にまだはっきりと残されていたらしい。驚くほど細かいところまで、精密に思い描くことができた。
 リビングが引き金になって、廊下や玄関、自室、洗面所といった場所までが次々と頭に浮かんでくる。その場所を歩きたいと強く思うほど、イメージはより鮮やかになって、私の中で互いに連動した。階段を駆け下りる足音や、リビングに漏れてくる洗面所の水を流す音、ただいまと誰かが玄関のドアを開ける直前の、鍵の回る音など。忘れかけていた日常が、息を吹き返したように溢れる。
 もうすぐ、そこへ行くのだ。
 気づけば私は両目を閉じて、自分が思い浮かべる景色の中に一層深く入り込もうとしていた。想像の中で、私は傍らに懐かしい気配を感じている。母だ。振り返ればすぐそこに新聞を広げた父がいて、二階には兄がいる。金色の光が、瞼の裏側を明るく照らしていた。それすらも今は、キッチンに差し込む日曜日の朝の光の記憶を呼び起こす。
 その光に呑まれるように、想像の中へ、いよいよ最後の一歩を踏み出そうとしたときだった。水面のように揺らぐ景色の向こう側に、そこにいない人の声を聞いた。
 私の知らない言葉で、目を閉じた私へ向けられ続ける呪文。瞬間、瞼の裏に紫の影が爆ぜた。あ、と思う間もなく、意識が急速にこちらの世界へ引き戻される。鮮明だったイメージが霞んで、金の光と紫の闇が一瞬にして混ざり合った空間に、灰色が一筋靡いた。
「マキ!」
 足元が、がくんと大きく揺れた。私が短い悲鳴を上げたのと、異変に気づいた彼が叫んだのはほとんど同時だった。驚きに見開いた目の中で私が見たものは、あれほど綺麗だった金色の光がところどころ枯草のように輝きを失い、かと思えば青や緑に変色して暴走している光景だった。
 イメージが中途半端に崩れたせいだろうか。足元が不安定に揺れ動いていて、立っているだけで精いっぱいになってくる。色とりどりの光は私の全身を囲んで、オーロラ加工の鏡のように歪な煌めきを放った。空気が圧縮されるようだ。息が苦しくて、呼吸が上手く続けられない。かき消されるような恐怖と混乱で、逃げるように手を伸ばす。
 その手を、魔方陣の向こうから飛び込んできた手が掴んで、強く引き寄せた。
「させない。大丈夫だ、そのまま」
「ル……っ」
「落ち着いて、三秒数えたら息を吸ってみろ。心配するな。君は私が、絶対に元の世界へ――」
 真っ暗闇に抱きこまれて、ぎらぎらと刺すように溢れていた光が一つも見えなくなる。忘れかけていた息を呑んだ一瞬に、心臓の動いている音が聞こえた気がした。温かい。確かな温度に縋るように、ローブを握って三秒を数える。その間にも、周囲に満ちる空気がどんどん安定していくのが分かった。


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