].帰還


 これほど多くの人に情報が行き渡っていたというのに、私にとっては本当にサプライズで、今の今までそんな話はこれっぽっちも知らなかったのである。用意をしてもらっていたことも勿論だが、全員がそうして私一人のために、「秘密にしよう」と協力してくれていたのだということも、それだけで少し視界が潤むほど嬉しかった。
 主役がジュースを掲げて慣れない乾杯の号令をし、何の用意もなかったおかげで拙いお礼の言葉しか出てこないという格好のつかないパーティーだったが、皆は口々に「お疲れさま」「楽しかった」「ありがとう」と労ってくれた。料理担当の人たちが大きなチョコレートケーキを用意してくれていて、ナイフが上手く入らないような大きさのそれを、皆で笑いながら切り分けて食べた。
 冥夜祭の折に私が美味しいと言ったスープも用意されており、食事が出されてくると兵士さんたちを筆頭に宴は盛り上がって、食堂は賑わいに包まれた。何がとは言わなかったが、私はルクにお礼を言った。冥夜祭のとき、あのスープが好きだと話した相手は彼だけだ。料理を作ったメイドさんたちに、リクエストを通してくれたのは多分ルクだろう。
 冥夜祭以来といえば、久しぶりに鎧を脱いで顔を合わせたゼンさんとは、出会いの話題がすっかり笑い話になった。私が城門の中に堕ちてきたときのことを知っている人は、意外と少ない。人間だということが発覚してすぐ、混乱を防ぐために、私を捕らえた人たちには箝口令が布かれたそうだからだ。
 お酒も入っていつもより陽気になった騎士さんたちは、私がゼンさんに抱いていた第一印象が最悪だったことを知ると、団長が女の子に嫌われるなんて珍しいと笑い転げた。やはり、ゼンさんはモテるようである。鎧を着ていなかったら、私もあのとき、怯える心の片隅でちょっと見惚れていたかもしれない。
 パーティーは深夜まで続いた。途中から妙に気分がふわふわしていたのは、眠気や感動のせいだけではなく、もしかしたら間違えて一口くらいお酒を飲んでしまったのかもしれない。私の周りには、とにかくたくさんの人が集まっていて、グラスもフォークも人も声も溢れて入り乱れていた。
 地上で待つ私の家族の話や、家の話を色々と聞かれた。皆、帰れることが決まるまでは下手に聞くと寂しい思いを蒸し返すと思って、これまではあまり地上の話を振らずにいてくれたようだ。私にとって魔界が異世界だったのと同じように、彼らにとっては私の故郷が異世界になる。彼らは些細な話に驚いたり笑ったり、終始あれこれと質問をしては、私の帰る日常に興味を示した。
 当たり前だった、あの日々に。想像すると、期待と大きな達成感、元の世界への愛しさとこの世界への愛着が引き合って、胸が張り詰める。風を受けて膨らんでいく、真っ白な帆のように。破れるところを知らず、どこまでも広がっていく。その奥にある鼓動は、思いのほか静かだった。この白い廊下に落ちる靴音のように、穏やかに続いている。
 私は、鼓動の隣に座っている、形のない心が持ちかけてくるざわめきから目を逸らすように、コートのポケットからポイントカードを取り出した。
(鏡文字――ではないんだろうな。きっと)
 五千の文字と、私の名前が記されたカードの左下に、銀のインクでルクの名前が書き込まれている。隣には判が押されていた。定められた数の善行を、私がこなしたことを証明するサインだ。このカードが、帰りは〈地獄の門〉の通行証になる。地上へのパスポートを光に透かせば、その向こうに、近づいてくる広間が見えた。
「なんだ、もしかして緊張しているのか?」
 いつの間にか、また斜め前を歩いていたルクが振り返って言う。心から意外に思っているようにも、沈黙を取り払うための軽口にも思える表情だった。カードをポケットにしまって、唇を尖らせる。
 緊張なんて、しているに決まっている。
「仕方ないじゃん、魔法で別の世界に帰るなんて経験、したことないし」
「それもそうだな」
「ルクだって、生者を帰すのは初めてだって言ってたじゃない。本当に大丈夫? 今度はうっかり、神界まで飛ばされたりしない?」
 私はこれから、魔法の力で地上に帰るという、映画か漫画のような体験をしようとしているのだから。何かの手違いが起こったらと思うと、気が気ではない。いくらなんでもそんなことはできるわけがないから大丈夫だと、私の異世界たらい回し被害妄想をふき出すように否定して、ルクは言った。
「心配しなくても、今日まで君はよく頑張った。必ず無事で帰すさ」
「……うん」
「な、なんだその間は。言っておくが、失敗などしないぞ? これでも一応、魔力だけはちゃんと……っ」
「はいはい。分かってるって、魔王さま」
 信じていないだろう、とため息をつくルクに、そうでもないよと返して窓の外を見る。景色が確実に動いていて、けれど芝生や木は歩かない。遠くなった城門は、私がそれだけ元の世界に近づいていることを暗示しているようだった。
 分かっている。彼はきっと、失敗しない。
 遠くに見えていた広間が、もうすぐそこまで来ている。〈儀式の間〉に入れるのは、王と儀式の参加者だけだ。ルクと私だけが歩いていた、最上階の白い廊下はじきにそこへ繋がる。階段下で見送ってくれた皆の顔を思い出し、別れに実感が湧くのか湧かないのか、込み上げる思いの名前を付けあぐねて、つんとする鼻で深呼吸をした。
 神殿の内部のような、白い柱の並ぶ〈儀式の間〉に足を踏み入れる。乾いた石の香りと、陽だまりをかき分けて歩くときの温かさが溜まっていた。ルクが手を翳すと、中央に魔方陣が現れる。金色の輝きは、天井に映ると細かな文様が崩れて水面のように揺らめいた。


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