\.ブルーベリーブルー


「いいよ」
「そうか。では――」
 こんこん、とルクが二度、カップの持ち手を叩くと、薄茶色だったコーヒーはみるみる深い黒に代わって、嵩も私が持ってきたときの分量まで戻った。私のカップの中も、同じように元の状態へ戻っている。
 相変わらず、魔法のようだ、という言葉が本当に似合う魔法だ。変化の瞬間をどれほど目で追ってみても、手品ではないからすごいとしか言いようがない。その魔法が今、いかにくだらないものに使われているかということについては、この際なので目を瞑ることにしておく。
 私たちはほとんど同時に、自分たちのカップへ手を伸ばした。
「……っ」
 熱さにごまかされて、一瞬は分からなかったが。久しぶりに、甘さの全くないコーヒーを口にした。沁み込むような苦さが、あっという間に喉の奥に広がる。思わず眉を顰めそうになるのを堪えて盗み見れば、ルクも同じように、ちょうど私の様子を確かめたところだった。
 平然として、余裕を装う。
 本当は何も、ブラックコーヒーが飲めるか否かにそれほど大きなこだわりがあるわけではない。どうせお互いにそうなのだ。分かっていたが、私たちは無言で二口目を飲んだ。冷めて消えかかっていたはずのコーヒーの香りが、纏わりつくように帰ってきている。
 カップの中身は、残り半分ほど。もはや私たちは喋ることも忘れて、時々目を合わせては無言で戦っている。ルクが思いがけず健闘していて、このままでは私のほうが先に限界を訴えそうだった。シナモンビスケットで休憩を挟もうかという作戦も頭を過ぎったが、なんだかそれはそれで負けを認めた気がして悔しい。
 ――ひと思いに、飲み干してしまおうか。
 焦りからか勢いからか、そのときは確かに、それがこの上ない名案のように思えたのだ。私は思い切ってカップを傾け、残ったコーヒーの半分近くを一気に流しこもうとして――熱さがやや引いてきたことにより一層はっきりしてきていた苦味で、盛大に噎せた。
「ほら、見栄を張るからだ」
「えほっ、別に平気……っああ! 何してんのよ!」
 顔を上げると、目の前に飛んできたピッチャーがふわふわと、私のカップにミルクを注いでいるところだった。抵抗する間もなく、再び噎せている間に、ブラックだった私のコーヒーはカフェオレになっていく。恨みがましく睨んでみても、ピッチャーは私の手をすり抜けて器用に逃げ回りながら、たっぷりのミルクを入れていった。
 これでは、もう勝負は終わらざるをえない。私は徐に、シュガーポットを掴んで立ち上がった。
「魔法は卑怯でしょ! なんでこういうときだけ素早いのよ」
「勝負に終わりは見えたんだから、もういいだろう!」
「だったら、貴方も諦めどきじゃない? ほら、お砂糖」
「い……いい! 私はもう残りが少ないんだ、砂糖なんかなくたって辛くない!」
 片手でカップを庇って、もう片方の手で砂糖を掬った私の手を押さえ、ルクはぶんぶんと首を横に振った。指の間から見えるカップの中には、まだ半分をどうにか切ったくらいのコーヒーが残っている。強がりなのは分かりきっているのだ。私はスプーンを持ったほうの手ではなく、シュガーポットを持ったほうの手を伸ばした。
 何をしようとしているか、察しがついたのだろう。ルクはカップを塞いでいた手を離して、シュガーポットを取り上げた。私は素直にポットを離した――何せ、狙いは初めから、ポットから直接砂糖をぶちまけることではないのだ。いくらなんでも、砂糖に対してそんな無駄をするつもりはない。私はちゃんと、甘いものは大切にする主義だ。
 空になった手で、さっと反対の手からスプーンを取る。カップの上はがら空きだ。気づいたルクが、あと一秒というところで私の手を掴んだ。テーブルの上に数粒、砂糖が零れる。
「油断も隙も、ない……っ」
「何それ? 勝負は終わったんじゃなかったの?」
「終わったら砂糖を入れる、という決まりはないはずだ」
「それを言うなら、ミルクも同じだと思うんだけど?」
「それは君が、というか君、意外と力強……っ」
 もはや、忍耐勝負ですらない。ただの掴み合いである。メイドの仕事で鍛えられた腕に、ぐっと力を込める。毎朝洗濯物を運んで洗った腕、あらゆる掃除道具を扱ってきた肩、何十枚という皿を洗っては拭いている手。最近、二の腕がだいぶ引き締まってきたと常々感じていたのだ。おかげさまで、と返しながら、ルクを見下ろして私は挑発的に笑った。
「力技は卑怯だぞ!」
「なんでよ、私が言うならまだしも」
「君、本当に人間の女子か……? 地上で何か武道でも」
「そんなに強くはないでしょうが」
 失礼な、と呆れたが、意地で押し続けたせいか、確かに思ったよりは力が出ていた。体力測定の数値はそこまで良くも悪くもなかった記憶があるのだが、今なら腕立てと握力は結構いい線までいけそうだ。
 とはいえ、それはあくまで「私にしては」という話で。勢いに任せてこのまま勝てそうだと思ったのは最初だけで、今は互角の、両者一歩も譲らない戦いが続いていた。不利だった体勢をじりじりと入れ替えたルクは、椅子に押し込まれて立ち上がることはできない状態にあるが、全体重をかけた私の手を何とか食い止めている。


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