\.ブルーベリーブルー


(私のほうが、上から押してるのに)
 ほとんど真下に、情けなく抗議の声を上げている顔を見て、ふとそう思った途端。掴まれている手首の感覚が何かのスイッチを押されたかのように過剰になって、爪先からぶわっと、熱い風のようなものが体を駆け抜けたのが分かった。ふいに研ぎ澄まされた神経が、髪の先まで行き渡る。
 心臓と喉の間が、一瞬、呼吸の仕方を忘れて震えた。
「――マキ?」
 たった今まで、自分がどんなふうに手を動かして、どんなふうに目の前の人と触れ合っていたのか。そういう当たり前だったものが、ジグソーパズルを裏側から突き崩したように、何もかも分からなくなってしまった感覚がした。
 よほど妙な顔をしたのかもしれない。あるいは急に、ぎこちなくなった私の態度に気がついたのか。ルクは怪訝そうに視線を上げて、瞬きをした。
 今、目を合わせたら、なんだかまずい。
 私はとっさに、跳ね除けるように両手を振りほどこうとして――同じタイミングで、ルクが「どうした?」と掴んでいた手の力を緩めた。
「あ」
 景色が、すごい速さで上へ流れていく。思い切り体重をかけていた私の体は、唐突に支えを失って、予想以上にバランスを崩してしまった。これにはルクもさすがに想定外だったようだ。ぎょっとした顔で、何かを叫ぶように口を開いたのが見えた。
 その口が、声を上げるよりも早く。私はルクの肩口に頭からぶつかるように突っ込んで、両手を彼が座っている椅子の背もたれにつき、そのまま後ろへ押し倒した。
 スプーンが、視界の端で一回転して落ちた。髪の隙間から見える絨毯に、砂糖の雨が一杯分、ぱらぱらと降り注いでいる。くぐもった、ごとんという音だった。絨毯を敷いた床の上に、硬い木の椅子が倒れる音は。
「……っつ」
 すぐ傍で呻くような声が聞こえて、はっとして飛び起きる。眼下に広がる長い髪。頭を擦っているその人を見て、私はようやく、彼を巻き添えにして転ばせてしまったことに気がついた。
「ごめん! ごめん、ルク。大丈夫?」
「……っ」
「ごめん、わざとじゃなくて、よろけちゃって。倒すつもりはなかったの。どこか打った? あっ、喋れる!?」
 むきになったのはお互い様だったとはいえ、これは私が悪い。頭を打たせたかもしれないと血の気が引いて、あれほど引き下がるまいとしていたことなど一気にどうでもよくなり、後悔と申し訳なさが押し寄せてきた。
 焦って起こそうとし、どこか痛めていたら触ってはいけないと慌て、どうしたら良いか分からなくなって、私はルクのローブの襟の羽根をくしゃくしゃと握った。ゆるやかに伸びてきた手が、額に触れて、前髪をかき上げる。ルクはそうして、確かめるように私の顔全体を眺めた。
 なに、と訊ねようとして、沈黙が怖くてやめる。私は未だ、ルクが声を荒げて怒るような場面を見たことがない。それだけに、この状況は心配だけでなく、恐ろしくもあった。
 一言目に、何を言われても仕方がない。
「……っふ」
「ル……」
「ははっ、ははははは!」
 ようやく口を開いた彼の漏らした声に、私は瞑りかけた目を驚きで開いた。
 ルクは、笑っていた。それも、私が知る限り、これまでで最も声を上げて。お腹の底からおかしそうに、唖然とする私にも構わず笑っている。
 もしかして、怒りで笑えてくるタイプなのだろうか。
 思わずそう考えそうになってから、いやいやと首を横に振った。ルクはそういう、天邪鬼なところのある性格ではない。私も大した裏表などない人間だが、彼はそれ以上によく言えばまっすぐで――分かりやすい人だ。思っていることが顔に出やすくて、隠す気もあまりない。
 床に落ちた銀のスプーンに、照明から零れる光が溜まっている。景色がすべて、そうやって遠くに転がっている感じがした。
「まったく君は本当に、しっかりしているようで手が放せない。こんな調子では、いつまで経っても帰れなくなるぞ?」
 笑っていた両の目を開いて、ルクはそう言って、頬にかかった髪をはらった。
 一瞬、返事が何も浮かばなくて、ただ「うん」と頷き返す。吹っ切れたように息をついて、彼は私の背中を軽く叩いた。その程度の行為にも、体が前に揺れる。私はよほど、ぼうっとしていたらしい。
「ほら、怪我がないなら起きてくれ。ただでさえ、ひ弱だの何だのと言われているんだ。こんなところを誰かに見られて、人間の女子にまで負かされたなどと言われては、さすがに洒落にならない」
 言われてようやく、椅子もろともルクを押し倒したままの恰好だったことを思い出し、私は慌ててごめんと言いつつ彼の上から退いた。転がるように、絨毯に両足をついて考える。
 あのとき、帰れなくなるという言葉が、すぐにはピンとこなかった。カードのことも地上のことも、あのときは何もかも頭になかった。
 それよりもただ、怪我をさせなかったかということと、こんな迂闊な不注意で関係が悪くなって、もうこの時間が二度と持てなくなってしまったらどうしようということ。その二つで、思考はいっぱいになっていて。
 両目はそれらを全部吹き飛ばした、灰色の髪の間から真っ直ぐにこちらを見て笑った紫の眸に、見惚れていた。

 私のポイントカードが「5000」の数字を刻んだのは、それから約一ヶ月後の真昼のことだった。


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