Z.冥夜祭


 大の大人、それも自分より年上に見える男の人から、そんな表情を向けられたのは初めてのことで。私はなんとなく、ゼンさんの気持ちが分かってしまったような気がしながら、ルクを見上げていた目をふいと背けた。
「はっきり言われすぎるのも傷つくけど、はっきりしてくれないのって、なんか適当にはぐらかされた感じがするなあ」
「マキ?」
「どっちでもいいけどさ。嫌なら嫌で、こういうときは上手いこと断ってくれなくちゃ。曖昧に流されるのも、結構傷つくんだからね」
 我ながら、雑な小芝居である。空のグラスの底へ俯いた視線を落として、拗ねたように体ごとそっぽを向いた。内心は、半分はルクの反応を楽しんでいて、半分はさすがに「いい加減にしろ」と言われるかなと迷っていたのだが。
 様子を見るために、ちらと横目でルクを窺う。彼はなんだか、予想以上に狼狽しているように見えた。
「あー……その、そういうつもりは……」
「何?」
「いや、そうだな。これでは渋ったと思われても当然か」
 独り言のように、誰に言うともなく零された言葉は、音楽と喧騒に紛れてよく聞こえない。聞き返そうと一歩、傍へ寄ったとき、彼は突然私の手からグラスを奪い取った。
「ルク?」
 唐突な行動に驚いて、取られるがままに持っていかれてしまう。どうしたの、と声を上げる間もなく、彼は自分と私のグラスをテーブルの端に置いて戻ってきた。お喋りをしていたメイドと兵士が数人、ルクに気づいて振り返る。ルクは彼らとの挨拶もそこそこに、妙に緊張した面持ちで私の前に立つと、ほんの一瞬、どこか力が抜けたように笑った。
 ――そして、彼はあろうことか、片手を胸に当てて腰を折った。
「私と、踊ってくれないだろうか?」
 頭が真っ白になる、という感覚を、久しぶりに思い出した気がした。魔界に来たばかりのころは、文化の違いに度々こういう目眩を覚えていたものだ。思考が何もかも、一瞬で吹き飛んで、言葉さえ忘れてしまう。そんな目眩。近頃はそれもずいぶん少なくなってきて、すっかり忘れかけていたのだが。
「……な、なんだ? 君が何か誤解をしているようだから、ちゃんと申し込んだんじゃないか。返事をしてくれ」
 忘れたころにくる衝撃ほど、大きなものはない。
 私は危うくよろめきそうになった足を立て直して、呆然として目の前を見た。冗談に乗っかったお芝居だったのに、だとか、ダンスの申し込みというのは多分そんなに赤くなって、がちがちに固まってまでするものじゃない、だとか。真っ白だった頭の中には、様々な思いが戻ってきつつあったけれど、分かるのはただ二つ。
 ルクは私の悪戯心に見事に騙されたし、私はそんな彼を冗談にはめた罪悪感よりも、人目もはばからず嘘の誤解を解こうとしてもらえたことに、どきどきしている。
(……悪女、って柄でもないのに)
 ごめんなさいを思うよりも先に、嬉しいと思ってしまったことに、自分の悪い部分を見た気がして少し胸が痛んだ。しかも私は、今すぐ謝らなくてはと焦っていないのだ。あまりにびっくりして調子が狂ってしまったせいか、冗談だったことも嘘だったことも、なんだか一気に過去のことに変わってしまったみたいに色あせている。
 今はただ、まるで初めからそうするつもりだったかのように。差し出されたルクの手に、おそるおそる、指先を滑らせた。
「……よろしく、お願い、します」
 そういえば、こういうときの返事はなんと言ったらいいのだろう。場慣れしていないことを今さら思い出したがもう遅く、ルクはほっとしたように私の手を握って頷いた。その後ろでゼンさんが、堪えきれずといったようにかすかに笑っている――そういえば、この人が笑うのを見たのは初めてだ。
(もしかして、私もからかわれた……かな?)
 半ば確信に近い疑惑が胸を過ぎり、けれどもそれを訊ねるより早く、私はルクに手を引かれてテーブルを離れてしまった。歓談の賑わいが、数歩と離れないうちに遠くなる。
「あの、ルク! これ、本気で? 本当に行くの?」
「ん?」
「勢いで出てきちゃったけど、私、こういうのは本当に踊ったことがなくて。ダンスっていったら、小学校のときのフォークダンスくらいしか……」
 だんだんと近くなるダンスフロアを目前にして、私はやはり引き返すべきではないかと慌てて口を開いた。驚いたのやら空気に押されたのやらで申し込みを受けてしまったが、今になって我に返っている。
 無理だ。私では、どう頑張ったところで一曲を乗り切れない。
「そうは言っても、ここまで出てきて歩いて帰るのも異様だぞ? 逆に注目を浴びる」
「だけど……!」
「心配しなくても、上手い下手が問題になる舞踏会じゃないんだ。少しの間でて、無理だと思ったら足でも捻ったことにして抜けてしまえばいい。ギブアップだと思ったら言ってくれれば、それとなく端に」
「そういうことじゃなくてっ」
 フロアはどんどん近づいてくる。悠長に私のことばかり宥めているルクに焦りが募って、思わず小声で叫ぶと彼はようやく足を止めた。


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