第八幕


 翌日、いつもより二時間ほど遅く目を覚ましたハイエルは、マントを外した通常の仕事の服装に身を包んで、城の廊下を歩いていた。昼を間近にした中庭から、差し込む光は粉のように細かく眩しい。象牙色の廊下はその白に満たされて、穏やかに視界を霞ませた。
 前方から、一人でいるのを見かけるのは珍しい相手が近づいていることに気づき、ハイエルは静かに頭を下げた。
 向かってきていた人物もそれがハイエルであることに気づいたらしく、おおと声を上げて歩み寄ってくる。深緑の靴に這わされた刺繍が、日光の下で眩しく煌いた。
「顔を上げよ、ハイエル。調子はどうだ」
「変わりありません。王はお一人で、どうされたのですか。王妃様は、ご一緒ではないのですね」
 謁見の間以外では、王は気安く膝をつかれることを良しとしない。跪くことはせず、その場に立ったまま会話をする。廊下には王の後ろにもハイエルの後ろにも人がおらず、程よい昼の気温と静けさが、自然とそこに擦れ違うだけでなく、立ち話を生んだ。私も一人で出歩くことくらいある。王はそう言って、中庭に視線を向けて笑った。
「フィリアは私室で休みを取っている。私も仕事中だったのだが、天気が良いのでな。少々、城の中を散策だ」
「そうでしたか、どうりで護衛の者も見当たらないと」
「ああ、城外に出るなら必要なのだろうが、この城の中で護衛をつける気はない。人を信じぬ者は、結局人に裏切られると相場が決まっておるだろう?」
 蔦色の目の中に、光が零れる。ハイエルはその光景を、眩しく目に焼きつけた。
 ティモン王について、この国中の人間に尋ねたら、きっと最も多く返る答えは「王国の民を信じる王である」という答えであろう。貴族であろうと血縁であろうと、町の子供であろうと関係ない。彼は第一に、信じるという前提で人と接する。特に城で直接自分に仕えている者に対して、その姿勢を分かりやすく示す。
 内に入れた人間を、疑ってばかりでは同志にはなれない。一つの国に暮らすということは志を同じくすることでもあるのだと、それが彼の信条のようだ。
 反面、自分の国に暮らす人々を守るため、外に対しては時として厳しい王という顔も見せる。アレステア王国が小国でありながら他国の侵略をほとんど受けずに続いている陰には、そうしたティモン王の深い思いと思慮がある。
「七夢渡りは、順調か?」
 王になるとは、そういうことだ。ハイエルの考えていることを見通したのか、そういうわけでもなかったのか、ただ思い当たった話題を振るような声音で王は話を変えた。
 写真の一件は報告に上がったところ、ちょうど来客中で伝えることができなかったので、報告書のような形で簡易的に書き記したものを扉番に預けておいた。夕刻頃、それを受け取ったとの王からの返信があったが、写真を撮影させてもらって以来、こうして顔を合わせたのは初めてである。
 いくつかの話をかいつまんで伝えると、王はその一つ一つに首を頷かせながら聞き入り、やがて落ち着いた声で訊ねた。
「目的は果たせそうか?」
 問いかけに、ハイエルはすぐに頷くこともしなかったが、困惑する様子も見せなかった。返答はすんなりと、初めからそこに用意されていたように、自らの中に湧き上がってきた。紫黒の双眸で王を見つめ、迷いのない声で答える。
「まだ、自信を持ってはいと言えるかと問われたら分かりません。ですが」
「うむ」
「少なくとも、私はこの七夢渡りを後悔はしていません。最後に自分がどのような選択をするとしても、この儀式には、私にとって何物にも代え難い価値がありました」
 生涯にたった一度の儀式と言われる、七夢渡り。自分がそれをここで使ったことは、間違いだったとは思わない。むしろ、最良の選択だったと思っていると言ってもいい。
 そのことに関しては、すでに確信を持って言い切ることができます。つけ加えてそう言ったハイエルを、王は何か考えるように、じっと見つめて口を開いた。
「……ふむ」
「どうかされましたか?」
「いや。ハイエル、そなたは少々、丸くなったと思ってな」
「丸く……? 確かにここ数日は、儀式に支障のないよう、鍛錬を最低限のものに抑えております。数日で見かけに出るほどとは、自分では気がつきませんでしたが……」
 ハイエルは咄嗟に、自分の両手を眺めた。右手は剣を、左手は盾を持ち続けているせいで、歳のわりに皮膚の硬くなった手だ。ここを見ても、それほど肉付きが変わったのかどうかは分からない。
 鏡があれば輪郭を見られたのだが、と考えたところで、王が「体格の話ではない」と笑みを含んだ声を上げた。


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