第六幕


 硬い石の上を歩く爪先が、わずかに残った砂利を踏んで音を立てた。七夢渡りも三日目の晩を迎える。ハイエルは迷いのない足取りで、川を背にしてトコロワを歩いてゆく。
「ライラ様」
 今日は、ハイエルのほうが先に気づいた。声をかけられて、ライラが閉じていた瞼を開ける。アイスブルーの眸がふわりと瞬き、ハイエルは立ち止まった後、跪かずにその場で軽く一礼した。顔を上げると、変化を読み取ったのか、ライラも冗談めかして真似るように頭を下げた。
「無礼と、思われないのですね」
「だって、本来であればこうだったのではありませんか? 私と貴方とは、婚約者となるはずだったのですから」
「ええ、それに気づくまでに、三日ほどかかりました。こうしてお会いするとどうにも、ようやく私の想像でない、本当の貴方を前にしているのだという実感から、いつも以上に畏まってしまうようで」
 感動や高揚によって我を忘れる人もいれば、自分のように、戸惑いが勝ってそれを表に出すまいとより硬くなる人間もいる。初日のことなど思い出すと、ハイエルは少し気恥ずかしくなるくらいだ。
 今さらながら正直に明かせば、ライラは口許を隠して笑った。ラベンダーの袖口に触れる薄紅の唇から、零れる声は柔らかい。
「ライラ様、今日は一つお渡ししたいものがありまして」
「私にですか?」
「はい。持ってきて良いものか、そもそも持ってこられるものなのか、迷いはしたのですが……」
 ハイエルは首を傾げる彼女の前に、ポケットから薄いものを差し出した。受け取ったライラの目が二度、三度と瞬き、それからはっとしたように驚きに染まる。
 これは、と震える声が呟いた。そこに強い悲しみや怒り、嫌悪といったものはないのを声音から読み取って、内心胸を撫で下ろし、ハイエルは答える。
「ティモン王と、フィリア王妃。城の謁見の間にて、撮影させていただきました」
「……っ」
「貴方の、ご両親です」
 ハイエルがライラのために持ってきたもの。それは、王と王妃の写真だった。刺繍の施された椅子に座り、こちらを向いた二人が柔らかに微笑んでいる。
 謁見の間にある日常の風景をそのまま持ち込んだ、その自然な写真は、昼間、ハイエルが二人に事情を説明して撮影させてもらったものだった。
「昨日、貴方のお話を聞かせていただいて思いついたのです。誰かの思考や記憶の断片から、情報を得ることはできる。でも、明確にその景色を目にすることは不可能だと、仰っていましたので」
「……はいっ」
「何とかしてお二人の姿を、口頭以外の方法で貴方に伝えることはできないものかと思い――」
 そこまで話して写真から顔を上げたハイエルは、ぎくりとして言葉を止めた。
 ライラの両目から、大粒の涙が零れ落ちたからだ。悪い贈り物ではなかったようだと思った矢先のことだったので、やはり衝撃が大きすぎたか、配慮が足りなかったかと動揺した。
 だがどう声をかけたら良いものか、言葉を探しあぐねているハイエルの耳に届いたのは、そういった可能性をすべて裏切って、予想だにしなかった安堵の言葉だった。
「良かった……!」
「え?」
「本当に、本当に……良かった。これを見て、やっと確信することができました。私は確かに父と母、二人の子なのだと」
 頭の中が、ばっと白く弾ける。
 それはハイエルが、全くと言っていいほど予想していなかった答えだった。涙させるかもしれない。そこまでは考えていたことだ。しかしその理由がまさか、こんなにも。
「これが私の父、私の母なのですね……遺伝というものが、こんなにも有り難いものだったなんて」
 こんなにも、原初に立ち返ることだとは。
 ハイエルは黙って、ゆっくりと頷いた。それしか、返せる答えが見つからなかった。写真の中、微笑む王妃とライラはとてもよく似ている。そしてその鼻筋や髪に現れた癖は、王の面影を残している。
 間違いなく、彼女は二人の血を引く子供なのだ。この写真の中心に納まることが許される、たった一人の、紛れもない二人の娘である。
 第三者から見れば疑う余地もなかったその事実を、当人である彼女が最も懸念していたなど。まだ愕然としているハイエルに、ライラは写真を見つめたまま呟いた。
「……ずっと。もしかしたら私は、生まれる場所を間違えてしまったから、神様がこの世界に引き留めたのかと考えていました。王家の娘として生まれたなど、本当は間違いで、だから成長してその間違いが大きくなってしまう前に、魂がこちらに呼び戻されたのではないかと」
「そのようなことはあり得ません。貴方は、どこから見てもお二人の娘です。一目見たときから、私にはそれが分かりました」
「はい。私にもようやく今、その考えこそが間違いだったと分かりました」
 母と同じアイスブルーの眸から零れる涙を隠すように拭い、ライラはハイエルへ向けて、有難うと微笑んだ。それはこの三日間に彼女が見せた中で、最も無垢な、純粋な笑顔に見えた。


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