第五幕


「そうですね……、私にはウツロワで起こっていることが、明確に見えるわけではないのです。そして実際に起こったときと同じときに、それを感じ取れるわけでもありません」
 ライラはそんなハイエルの内心の葛藤と決断を理解しているように、問いかけに対してなぜと訊くこともなく、言葉を選びながら答えた。
「トコロワの川岸には様々な、過ぎたものが流れ着いてきます」
「過ぎたもの?」
「ええ、すでに終わったもの、と言いましょうか。ここへやってくるのは、何も生き物の魂だけではありません。すべての、命を終えたもの。――例えば過ぎた会話や薄れた記憶、忘れられた思い出。一瞬の情景なども、それに該当します」
 ハイエルは思わず、横を流れる川を見た。水面は変わらず静かだ。波立つこともなく、風もなければ魚もいないので、揺らすものが何もない。彼方は霧に包まれてよく見えないが、どこまでいっても、同じ川面が広がっているだけに見える。
「この川を伝って、やってくるのですか?」
「はい。日々たくさんの人の、考えや思い、言葉などが。すべて、この岸に流れ着く頃には、ウツロワの世界では過去になったものばかりです」
「過去……」
「風景は、見通せません。けれど例えば……、そうですね、私は貴方の目が黒に近い、深い紫であることを知っていました。それは貴方と話をした人が、ふとそういう色だと思った、その一瞬の思考が、やがて忘れられてトコロワへ流れてくるからなのです。ここにはそういった、日々の何気ない思いが最もたくさん流れてきます」
 ライラは自分がこの川岸で、眺めているというのか聞いているというのか、そうして感じ取ったものの中から、様々な知識を得て暮らしているのだと言った。老若男女、時として人間以外のものの思いでも、届くものは届くという。
 彼女はそこで、物心つく前から王と王妃の思いを拾って育ち、自らの出自を理解していた。体を持たない魂は、衣食住に依存することもなくこの川岸で成長し、段々と多くのことに耳を傾けるようになっていったという。
 中でもやはり気を引いたのは、アレステア王国の国民が、現在の生活をどう思っているのか。王家に対して何を考えているか、そういったことだったようだ。
 トコロワからそれを父母に伝えられないことをもどかしく思う反面、どうにかして伝えなくてはと切に思うような不満の声がほとんどないことに、密かな誇らしさを抱いたことも少なくないのだという。素晴らしい方たちですから、と答えると、二人と顔を合わせたこともないはずの彼女は、心から嬉しそうにはにかんだ。
 過去のものたちの世界、か。考え込んだハイエルの視界の隅から何か、白いものが割って入る。猫だった。
 ハイエルがそれを伝えるよりも早く、ライラの足元にやってきて擦り寄る。感触に気づいてそこを見下ろした彼女は、身を屈めてその背中を一頻り撫でた。柔らかそうな毛並み、しなやかな体。
「貴方も、誰かを待っているのかしら」
 答えるように一声鳴いて、川岸を歩いていく。後ろ姿はまだ若々しく、それほど年老いてはいない猫だった。そんなことさえ分かるくらいに、明確な形を持って歩いている。けれどあれも、ウツロワではすでに過去となったものなのだ。
「ライラ様、貴方は」
 ほとんど無意識に、口を開いていたようである。耳から聞こえてきた自らの声で初めて、自分が何かを問おうとしていたことに気づき、ハイエルは我に返った。
 ライラが視線を彼へと戻す。だが、意識がしっかりと戻った瞬間に、その後に続けようとしていた言葉は分からなくなってしまった。分からないまま、伽羅の香りがハイエルを促すように漂い始める。
「ウツロワに、帰る時間ですね」
「あ……」
「また、今夜に」
 まだどこかぼんやりとした思考の余韻を引き摺っているハイエルを、ライラはそう言って見送った。深く、頭を下げる。灰色の地面はやがて黒く染まって見えなくなり、ハイエルの意識はすうっと、まるでそこに引き込まれるようにウツロワを後にした。

「――――……」
 目を開ける。
 洗濯されたシーツの清潔な香りが、最初にハイエルをこの世界へ戻ってきたのだと実感させた。寝返りを打って、ベッドの横に置いた時計を確かめてみる。一時間弱。昨日よりも少し、トコロワにいた時間が長くなっているようだ。
 天井を見つめ、長い息を吐いて瞼を手の甲で覆った。こちらへ戻る直前の思考が、まだ霞のように残っている。
 ――ライラ様、貴方は……
 あのとき、自分は無意識のうちに、何を聞こうとしたのだろう。思い当たることが多すぎて、すぐには見当がつけられない。あるいは、ただ呼びかけてしまっただけにも思える。


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