第十二幕


 夢から覚めたときからずっと考えていたが、結局はとても単純なものに落ち着いた。休暇を取った七日目の昼。ハイエルはこの日、城には出向かず、午後の町を一人歩いていた。
 小さな包みを一つ手にして、木と厚いガラスで造られたドアの外に出る。店内で繰り返し演奏されていたオルゴールの音が、閉まるドアの向こうにくぐもって消えた。
 春の眩しい日差しが、白い石畳の道を照らす。空は青天だ。
 細い風が、立ち並ぶ店の間を吹き抜けて、ハイエルの髪の先を揺らしていった。二段だけの階段を降りて、石畳を踏む。焦げ茶色の爪先は、日頃の黒い靴と違い、日溜まりの中に馴染んでかすかに光を弾いた。
 こうして指定のものでない私服に身を包み、町を歩くのはいつ以来のことだろう。一見すれば城の騎士とはまるで分からない、生成りのシャツと細身のパンツ。身分を示す制服姿でないので、剣も提げていない。
 観光客か、昼の食事を買いに出た店員のように身軽な出で立ちだ。ハイエルはガラスに映った自らの姿をそう思い、通りの角を曲がった。国内でも特に城下に当たるこの辺りは、昔ながらの町並みに、多くの店が並ぶ。同じような大きさの建物が続いて迷うことで有名な道だが、北西を見ればどの場所からでも、高く聳えるアレステア城が目に入る。象牙色の尖った屋根は、先に青い旗を立てて、今日も変わらず静かに佇んでいた。
「待ってよ、お兄ちゃん!」
 ふいに、目の前を少年が横切っていったかと思えば、後からその少年の背中くらいしかない少女が駆けていった。赤いワンピースの後ろ側に、小さくリボンを作っている。少女が何事か口にしながらばたばたと走っていくのに合わせて、リボンは上下に揺れ、やがて遠ざかって見えなくなった。
「ああほら、先に行くけど、そこで待っててやるって言っただろ。走るから」
「だって、お兄ちゃんが」
「分かったよ、仕方ないなあ」
 どこかで角を曲がったのか、遠くへいったと思ったのに彼らの声が聞こえてくる。しゃくりあげるような声を交えてだってだってと言い訳をする少女と、呆れたようにも焦ったようにも聞こえる少年の声だった。
 こちらからか、と左手を覗いてみれば、路地の先に座り込んでいる子供が二人。どうやら少女のほうが、兄を追いかけて転んだらしい。
「立てるか?」
「うん」
「嘘つけ。隠すなよ、血が出てるんだから」
「平気だもん」
「分かったから」
 かみ合わせる気のないやり取りをしながら、少年は妹のポケットに手を突っ込み、ハンカチを取り出して膝を拭っている。汚れのない裏側で泣いている少女の頬を拭い、大丈夫だって、と宥めるように言った。
 何かをしてやるべきかと思ったが、その幼いなりに慣れた手際の良さには覚えがあり、ハイエルは黙ってその場を立ち去った。路地の奥からはまだ、二人の話す声が聞こえてくる。風に乗って流れていくそれを、聞くともなしに捉える。
「ほら、乗って。おぶってやるから」
「うん」
「何だよ、立てるじゃないかよ」
 少年は不服そうにそう叫んで、やがて「重い」と文句を漏らした。先ほどまで泣いていた少女が笑う。その声に、頭の中で自分を呼ぶ声がふと甦った。
 ――ハイエル、ハイエル。
 ――はい、なんですか。
 ――高い高いって、してください!
 ――ですから、それは僕よりも父さんのほうが……
 ――じゃあ、別のことでもいいですわ。
 ――え?
 ――何でもいいのです。ハイエル、何だったら私と遊んでくださるのですか?
 懐かしい声音だ。呼んだものも、応えたものも。どちらも今より、まだずいぶんと幼くてあどけない。片方は舌足らずで、片方はまだ少年の声で、どちらにも大人びた口調が到底似合っていなくておかしかった。
 ねえハイエル、と。裾を引かれて振り返れば、橙色の髪を揺らして嬉しそうに微笑む。回想の中の少女が、遠くの看板に弾かれた眩しい光に覆われて、また消える。
「……」
 手がかかるのに、手が離せない。どうしてこんなことに、と前にも思った気がするのに、何度も何度も同じように結局許してしまう。幼い兄妹に、ふとそんな十年以上も昔の記憶が鮮やかに甦って、ハイエルは思わず、苦笑とも微笑ともつかない笑みを零した。
 古い思い出だ。だが、色褪せて失われたものではない。時間を経て、姿やその在りようを変えて、あの日々から今このときまで、確かに繋がっている。
 ――ハイエル、私は……
 凛とした声が、甦ってくる。幼い彼女のそれではない、今ある彼女の声。はい、なんですか、と心の中で返事をしようとして、ハイエルは思い留まった。自分がこうしている今も、彼女は返答を待っている。こんな白昼夢のような回想で、なんですか、などという答えではなく、もっと現実のものとして、返すべき言葉が色々とあるのだ。


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