第十一幕


「ライラ……?」
 まさしく、ハイエルの知るライラそのものだった。紙のように白かった手も、健康的で美しい真珠色に変わっている。目の前の人物が渡し守であったことを辛うじて伝えるのは、その腕に抱かれたままの櫂だけだ。しかしその名を聞いた彼女は、はい、とは微笑まず、納得したように頷いて無表情に言った。
「貴方さまには今、私の姿がそのように映っているのですね」
「ああ。声を聞けば、すぐに違うと分かる。それなのに……」
「……私は、この川を渡る者が最も願う者の姿を取ります。私に今、顔があるというのなら、それは貴方さまにとって願う者が生まれつつある証」
 目に映る姿は、ライラ以外の何者でもない形を持っている。しかしその声も表情も、口調も、ひと度こうして接すれば、本人のそれでないことは明白だった。
 願う者の、姿。ハイエルはその言葉を、漠然と頭の奥で繰り返す。
「なりませんよ」
「……」
「命なきものへの願いを、人は、未練と呼ぶのでございます」
 見通したように、渡し守はそう言って、再び櫂を動かし始めた。後ろ姿がぼんやりと滲み、薄紫のドレスが、黒い絹を重ねたような裾の長い衣服に変わる。しかし象牙色の髪の幻想までは、打ち消せずに残った。長い、長い溜息を一つ吐く。
「トコロワでございます」
「……有難う」
「よい、邂逅を」
 細い櫂に支えられて静止した舟から足を降ろし、ハイエルは深く頭を下げた渡し守に、同様に頭を下げて礼を言った。渡し守の挨拶は、いつもと何も変わらない。
 舟がゆっくりと向きを変えて戻っていくのを見送りながら、ポケットの中、伽羅の香袋を密かに握り締めた。生者のみが、纏うことを許された香り。いつぞやの夜に聞いたその言葉が、鉛のように深く重く、手の中に沈み込む。
 ――生者と、死者。ウツロワとトコロワ。
「ハイエル!」
 魂の帰る場所の、違い。ふいにそんなことを思った瞬間、背中から声をかけられて、ハイエルは我に返った。川面にはもう、渡し守の姿も見えなくなっている。振り向けば、綻ぶような笑顔を浮かべた少女がそこにいた。会いたかったとでも言うように、華奢な靴でこちらへ駆けてくる。
「こんばんは、今着いたところです。……ライラ」
 確かめるようにその名を呼べば、彼女はすぐに、はい、と答えた。香袋に触れた手を、見えないようにそっと拭う。
 ハイエルは心の奥で、渡し守の言っていたのはこういうことか、と気づいた。ポケットに残る香袋の存在に、後ろめたさを覚えている。生にしがみついている自分に、それをライラに知られることに。こんなにも近くにいるのに、なぜ自分はこの魂を連れて帰れないのだろうか。こうして見つめていると、自分が一人、生きていることが大きな間違いにさえ思えてくる。
 ――未練。
 まさしく、それであった。初めから分かたれていたのに、同じ世界に生きていないことを、今になって悔しく思っている。彼女が死者であることへの悲しみが、今さらながらこの胸に溢れているのだ。
 それはこの喜びに満ちた七夢渡りの中で、ハイエルが最後の最後に見つけた、大きな戸惑いだった。
 伽羅の香りがまだ手のひらに、仄かに残っているようだ。かすかに甘く、柔らかな香り。淑やかなはずのそれが今は、ひどく冷たいものに思える。


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