第十一幕


 無音の世界に、自分の足が百合をかき分ける音だけが響く。ハイエルは何もせずにいるよりはと思って歩き続けたが、次第に神経が疲弊していくのは治めようがなかった。上を見れば、そこにもまた変わることなく鏡が並んでいる。もうどちらが下でどちらが上なのか、分からなくなりそうだった。
 ふと、無心に歩き続けていた足を止める。いつの間にか、百合の高さが腰の辺りまで迫ってきていた。膝を掠める程度の背丈だったはずなのに、今やそれはハイエルの手やマントに引っかかって歩きにくいくらいだ。ここを出るつもりで歩いていたが、気づかないうちに、余計に深いところまで来ていたのだろうか。思わず戻るべきかと振り返ると、百合はまるで初めからそうだったように、すべての花がそれくらいに高さを揃えていた。
 甘い香りが、意識を侵蝕するかのように濃い。思考が濁って、まともにこの状況を訝しむこともできない。
 ――このままでは、もう。
 くらりと痛むような強い眩暈を覚えて、ハイエルが思わず頭へ手をやる。そのときだった。
 天井が、突然に砕け散った。
「――お目覚めください、ここで眠ってはなりません」
 鏡が、激しい音を立てて壊される。瞬間、何が起こったのかすぐには理解できなかった。無音だった世界に、急に風が吹き込んできた。大小さまざまな銀色の破片が、辺りの景色を映し取りながら落下してくる。
 大きな破片の一つが眼前に迫ったとき、ハイエルはそこに映る自分の、驚きに染まった顔を見た。
 破片は、剣の切っ先に似た銀色をしていた。固まっていた体が、何かを考えるよりも先に反応する。マントの裾を掴み、腕を覆って、真横から叩くようにそれを落とした。破片は百合の葉を切り裂いて、深々と地面に突き刺さる。
「なりません、トコロワで夢をご覧になるなど」
 風に紛れて、そう声が聞こえた。抑揚のない、淡々とした女の声。銀色の破片は、ようやくそのすべてが地面に落ちたようで、雨のように百合を叩いていた音が静かになった。天井に開けられた穴からは、絶えず風が吹きつけてくる。
「渡し守の……?」
 ハイエルはその向こうまで聞こえるように、心当たりの者を呼んだ。声に聞き覚えがあった。七夢渡りを始めてから、毎夜、自分を舟でトコロワへ運んでいる女のものだ。彼女はハイエルの呼びかけには答えを寄越さず、言った。
「命なきものは、眠るのですから。――この舟で」
 その言葉の意味を問うよりも先に、再び、遠くで鏡が割れた。立て続けに天井が罅割れ、壊されていく。共鳴するように甲高い音の渦は、悲鳴にも似ていた。
 風が強くなる。百合が一斉に腐り、枯れていく。甘く凄絶な腐臭に、ハイエルは咳き込む喉を押さえた。銀色の雨が、一面に降り注ぐ。
 ――伽羅の香りが、それらをすべて呑み込んだ。

「……っ!」
 がたん、と跳ね起きたせいで舟は大袈裟に揺れた。渡し守が足で、体重を乗せ変えてバランスを取る。水の跳ねる音がして、わずかに入り込んだ水滴が手の甲を濡らした。
「お目覚めですか。……ご無事で、何よりでございます」
「ここは……」
「ご覧の通り、舟でございます」
 酷い冷や汗と、息の上がりようだった。どくどくと、心臓が不安定に走り続けている。ハイエルは数秒、呆然として呼吸を整えながら、辺りを見回した。見知ったトコロワの川に浮かぶ、小さな舟の上に座っていた。
「……今しがたの、あれは」
「夢を見ていらしたのです。その魂が、今、このトコロワで」
「夢? 私は、眠っていたのか」
「はい。私がふと振り返ったときには、すでに目を閉じておいででした」
 渡し守は、先ほどの目覚めに関与したことを隠す気はないようだった。質問に答えて、ゆっくりと舟を漕ぐ。徐々に直前の記憶が甦ってきて、そういえば一度はいつもの通り、川岸で目覚めてこの舟に乗ったではないかと思い出した。
 六日目でございますね、と話しかけられたことまでは覚えている。何かを答えたはずだが、その辺りで急激な眠気に襲われて、そしてあの百合の原だ。
「私を、助けたのは貴方なのか?」
 櫂を動かす背中を見上げて、そう尋ねる。渡し守は返事をせずに、ちらとハイエルを振り返って、頭を下げた。
「忘れてはなりませぬ。囚われるのは、簡単なのです。貴方さまは、まだ」
「――え……」
「まだ、同じになるのは早すぎますよ」
 礼を言ったハイエルに、渡し守は櫂を動かす手を止め、体ごと向き合ってそう告げた。
 その姿が徐々に、ハイエルの知る別人の物へと変貌していく。象牙色の豊かに靡く髪、薄紫のドレス。顔を覆う薄い絹はいつの間にかなくなり、見えるのは細く通った鼻筋と、アイスブルーの双眸。


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