第十一幕


 暗闇に、ぼうっと明かりが灯る。
 意識がどこか、形のない深みからゆっくりと浮上していく感覚。指先が何かに触れた。上昇が加速する。ばらばらに眠っていた五感がだんだんと、一つに集結して冴えてくる。何だろうか、この感触は。そしてこの、息を吸うたびに肺をいっぱいに満たす、甘い香りは。
 ――――何だ?
 ばさっと、マントがふいに起き上がったせいで風に煽られたような音を立てた。自分の胸の辺りにあったらしい片手が、腿の上に落ちる。空気が唐突に動き、穏やかだった甘い香りが噎せ返るほどに濃くなった。比喩でなく、軽く咳き込んで、ハイエルは信じられない心地で辺りを見回す。
「ここ、は……」
 思わず呟いた声は、誰かが聞き取ることも、どこかで跳ね返ることもなく、咲き誇る百合の花に吸い込まれて消えていった。百合、一面の真っ白な百合の原だ。あまりの景色に数度、瞬きを繰り返したが変わらない。
 背丈の大体揃った同じ種類の百合の花が、まるで自分を取り囲むように咲き誇っている。こんなにたくさんの百合は見たことがないというほど、贅沢な咲きようだ。大ぶりな花と花は重なり合って、隙間を作るまいとするように並んでいる。ハイエルはそこに、どうやら寝転んでいたらしい。
「……いつから? いや、それよりなぜ……」
 見れば右手は、その花々の根本に埋もれていた。しっとりと冷たい、熱を下げるような葉の感触。先ほど何かに触れたと思ったのは、これだったようだ。青々とした茎と茎とが、まるでハイエルの手を縫いとめるように交差している。
 その光景が心なしか不気味に思えて、ハイエルはやや荒く手を引き抜いた。百合はかすかに揺れるだけだ。立ち上がり、自分の寝転んでいた場所を振り返ってみる。惨めに折れているとばかり思った花は、まるでハイエルなどそこにいなかったかのように茎を伸ばして咲いていた。
 ――ここは、どこだろうか。
 天井は隙間なく並ぶ、三角形の鏡であった。中に映りこむ景色は、ひたすらに百合の原。一つ一つは小さな鏡で、目を凝らしてもそこまではっきりとは見えない。ただ、真上に近い場所にある鏡を見ると、一面の白の中に一点の黒がある。あれが自分だろう。
 百合と鏡はひたすらに遠くまで続いている。前後左右、どの方角にも果ての見える場所がない。建物や自分以外の生き物も見当たらず、まるでここにはハイエルが一人で、この百合の原は無限に広がっているとでもいうような有様だ。
 ――ここは、トコロワなのか?
 眠りに就く前の記憶を辿り、ハイエルはその場に立ち尽くしたまま考えた。いつもの通り、自室で七夢渡りに臨んだはずだ。ここ数日と変わったことは何もしていない。ならば今こうしている場所も、トコロワなのだろうか。目覚める場所を何らかの理由で間違えたのか、あるいは、トコロワへ行く前に通常の夢でも見てしまっているのか。
 どちらにせよ、じっとしているわけにはいかない。ここがもしトコロワだとすれば、今このときにも七夢渡りの時間は削られているわけであるし、そうでないただの夢だとすれば、こんなときに夢など見ている場合ではないのだ。起きて、朝が来る前にトコロワへ行き直さなくてはならない。
 夢なら覚めて、トコロワならば川岸を探さなくては。ハイエルはひとまず、その場から動き出すことにした。膝の高さまである百合をかき分けて、感覚に任せて歩いていく。どの方向でもどんな形でも、とにかく何か、この景色の中に百合以外のものを見つけなければと思っていた。
 できれば果てか、壁か。もしくは扉でもあってくれると、状況を変えることができそうで助かる。少なくともこの百合の原が、無限ではないと分かれば。
 しかし、そう冷静でいられたのは最初の間だけだった。百歩歩いても千歩進んでも、景色は一向に変わる気配がない。彼方まで続く百合の花は、もはや一本の線にしか見えないほど遠くまで眺めてみても、その終わりを見せようとしないでいる。歩けども歩けども、進んでいる感覚がない。
 ハイエルは本当に進んでいるのだろうかと振り返って、自分の歩いてきた道を見た。百合のかき分けられた形跡が、確かにもうずいぶんと長く残っている。進んでいるのだ。そのことに少し安堵したが、再び前を見て、この方法では無理なのではないかという思いに駆られた。まるで地平線のように、百合は群れを成す。あの彼方まで行くとしたら、どれくらいの時間が必要になるだろう。


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