第X章


 私は時々、忘却は記憶よりも硬く、壊れにくいのではないか、と考える。忘却は無だ。有るものはその形を壊せるが、無いものは誰にも壊せない。――ロラン・バルド


 夏は水の流れるように過ぎ去り、また秋がやってきた。王宮には連日、各地からの特産品を載せた荷車が出入りし、初夏に完成を迎えた中庭の噴水には色づいた木の葉が浮かんでいる。制服を長袖に替えたメイドたちが、客室に毛布を運び入れて回った。タガンの部屋にもリシェがやってきて、オリーブグリーンの毛布を広げた。カーテンも風通しの良かった夏のものから、厚みのある滑らかなものへつけ替えられた。
 白の塔では、アイビーが一年前と比べ物にならないほど育ち、壁に模様を描くように床まで伝ってきている。じきに下へ届いてしまったら切ることになるだろうが、切らずにそのままにしてみたら、それはそれでユリアに草むらの感触を教えられるかもしれないな、とも思う。草木の中の、水の冷たさを彼女の手のひらは覚えているだろうか。思い出したらまた葉を千切ってしまうかもしれないが、そのときは髪に挿して、鏡を見せてみるのもいいかもしれない。
「今日は、空が明るいな」
 アイビーを辿って窓を、窓からさらに壁を辿って天窓を見上げ、タガンはそう呟いた。今日は、第一王子イースの十八歳の誕生祭である。夜が更けたからか、先ほどから祝いの花火が打ち上げられているようで、ひっきりなしに窓の向こうが赤や青に染まる。どこか懐かしい気のする、秋の終わりの宴だ。王宮では今頃、立食パーティーも終わりに近づいている頃だろうか。リシェは今年も給仕に出ると言っていた。彼女のワインボトルはもう、無事に空になったのかどうか。
 思い返せば昨日のことのように鮮やかに覚えているのに、懐かしい、と思えるのは、ここがあまりにその喧騒と隔絶されているからか。タガンは今年、誕生祭への参列を断った。理由はこじつけようと思えば色々とあるが、本当のところは、イースの十八歳を祝うという目的の祝祭に、自分がどういう顔をして参列したらよいのか分からなかったからだ。
 イースは今日で、晴れて伴侶を迎えられる歳になった。王宮はその話で持ちきりである。相手はもう何年も前、先王マルシスの時代から約束を取り決めてあった隣国の第二王女で、互いに気が合い、結婚にも納得しているそうだ。イースが九歳の頃から文通を続けており、気心もすっかり知れた間柄だという。早ければ来月には、王宮へ迎え入れるという噂だ。
「ユリア」
 会場にいた一年前はあれほど華やかに思えた喧騒も、空中廻廊を一本渡っただけで、ここまでは届かない。今頃また、大勢の客が少なくなってきた料理を囲んで歓談し、ケイナ地方のワインが振舞われている時間である。見る人のほとんどいない花火の音だけが、白の塔の窓を震わせた。室内が白く弾ける。緑の光が、カーテンを染めて広がる。
 呼びかければ、床に座り込んで窓の光を眺めていた少女は迷わず振り返った。グレイの眸の瞬きに、また一つ、部屋へ入った光の粒が呑まれて消える。いつの光のものだか知れない、花火の音が遅れて響いた。
「おいで」
 とんとん、とソファの隣を叩けば、じっと見ているが立ち上がる気配はない。その目が、タガンの眸に視線を合わせた。ユリア。もう一度呼びかけると、抱いていたクッションを置いて向かってくる。近くまで来たユリアの手を引いて隣に座らせ、緩やかに広がった髪を梳いて、タガンは再び天窓の向こうの夜空を見上げた。
 藍色が、今日は目まぐるしく色を変えている。おかげでたくさん見えているはずの、星の光は見つけにくい。この天窓から夜空を見るのも、最近では珍しいことではなくなった。
 このところ、午前中に白の塔へやってきてから、食事に出たり、書庫に行ったりと何度か出歩きつつ、夜までこの場所で過ごすことが多くなってきている。以前は日が落ちる前に部屋へ戻っていたのだが、日記すらここでつけることも珍しくなくなってきた。ペンやノート、インクを持ち込んで置いてあるが、ユリアが特に気にしていじることも、メイドが片づけてしまうこともない。小さなチェストの片隅に置かれた、透明な青い花瓶の横が、タガンの本とわずかな荷物を並べてあるスペースになった。
 タガンはしばしば、この部屋で眠ってしまうこともある。ソファで本を読んでいて、気がついたら、膝に寝転んで星を見上げていたユリアが眠っていた。そういうときだ。子供のように夜が早い彼女は、ふと気を抜いた少しの間に寝入ってしまうことがある。筋力のない身体は、抱き上げると見た目より遥かに軽い。後で寝台に、と思って区切りのいいところまでと本を読むつもりが、膝を伝う温かさに眠気を誘われて、結局座ったまま眠りに就いてしまうことというのは何度となくあった。
 メイドはそれを黙認している。朝が来て目が覚め、タガンが一度自分の部屋へ戻って朝食やら着替えを済ませて白の塔へ行くと、その間にユリアの着替えも済まされている。偶然のタイミングなどとは初めから思っていないが、メイオールへは何かしらの形で報告が入っただろうと思ったのに、何度同じようなことがあってもその黙認は続いていた。
 先日、アドにそれをたずねると、彼は苦笑してそういうものなのだと答えた。王宮にとって忘却の王女とは、初めから「王女」とは名ばかりの、ある種の信仰の象徴としての存在であり、彼女たちの命は捧げ物であるという感覚がある。捧げる相手は忘却という事象であり、忘却は対のものとして記憶を求める。王宮は記憶の力の宿し主を探し、忘却に対して捧げ、忘却の安定とそれによる王国の安泰を願う。
 その「忘却への捧げ物」という務めを果たすこと。それこそが、記憶の騎士に望まれている最優先事項であり、それが果たされているうちは、どんな形であろうとも王宮は騎士の行動を黙認している、と。
「あえて話すことでもないだろうと、教えたことはなかったが。過去に忘却の王女と関係を持ったり、責務から逃れるために、殺そうとしたりした騎士は数え切れない」
「え……?」
「記憶の力を持っているのは、自分なのだからな。本当は、王女ばかりが悪いわけではないが、何せ彼女たちはものを言わないだろう。抗わないし、漏らさないし、何より翌日にはすべて忘れる。行き場のない感情をぶつけるには、よくできすぎた的だ」
 空中廻廊の上で久しぶりに顔を合わせたアドは、タガンの唐突な問いかけに動揺することもなく、淡々とそう答えた。
「もっとも、殺そうとしても、記憶と忘却は互いを完全に消すことはできないらしいがな。首を絞めれば心臓が痛み、斬りかかろうとすれば手に力が入らず、といった具合でどうすることもできないらしい。太陽が月の運行を妨げたり、空が海を侵略したりできないことと同じだ。記憶の騎士に、忘却の王女を殺せた例はない」
 首を絞めれば心臓が痛み、斬りかかろうとすれば手に力が入らず。それが分かっているということは、どちらも試した者がいるということだ。それも一人や二人といった口ぶりではない。


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