第W章


 変わったのはユリアではなく、自分だったのだ。本当はもう、タガンはそれに気づいていないわけではない。日夜ユリアと向き合って記憶の力と戦い続けるうち、その制御にも少しずつ慣れて、本能と理性は互いを理解し、溶け合った。記憶の力とタガンの精神は、もはや以前ほどはっきりと分離していない。
 忘却の王女でありユリアを、記憶の騎士でありタガンは愛している。いつからかそこに、大きな境はなくなって、記憶の力はそれと同時に、破壊衝動に近い愛から人間のそれに近い愛を知った。タガンもまた、自分の名さえ覚えることのない少女を、特別に想うことに対して違和感を失くしてしまった。一方的な愛だ。だが、忘却の力を持つ彼女は、タガンの中にある記憶を本能で見出して、タガンの傍では穏やかに笑う。
 何者か、どういう経緯でそこにいるのか、自分はこの者とどういう関係性にあるのかといった「これまで」の存在を、すべて飛ばして身を委ねてくる。それがユリアだった。過去を持たない彼女には、いつも現在、このときしかない。それでも遠い時間の彼方から知っている相手に触れたように、初めのときからずっと、記憶がなくても名前や顔を忘れても、もっと深い場所で《タガン》を他の誰とも区別して接している。
 それはタガンにとって、充分に、愛情と等価だと映るものだった。
「アド」
 背中を向けて、無言で白の塔を後にしようとしたアドを、タガンが呼び止めた。数歩、迷ってから足を止める。ユリアの手の中で、開きかけた扉から吹き込んだ風に絵本がはばたいた。その音に紛れて、短い言葉が、躊躇うように発せられる。
「……また今度」
 アドは、何も答えなかった。代わりに一度、頷いて扉を出て行った。重みでゆっくりと閉まった扉の後ろにいる青年が、次に会うときも、まだ彼であることを少し願った。とっくに乾いたこめかみを、指の腹で拭う。春の青天が、雲一つなくガラスのように広がっていた。


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