第X章


 愕然として首を振ったタガンに、アドは「無論、全員がそうだったわけではない」と付け足した上で、しかし、と言葉を続けた。そういう者も、長い歴史の中には少なからずいた、と。
「記憶の騎士に関する記録書があまり残されていないのは、そのせいでもある。文字に起こして残せるような仕え方をした騎士が、それだけ少なかったという話だ」
 生まれ持った力のせいで、王宮に呼び出され、見ず知らずの王女の傍で数年間を過ごすように命じられて。この王女さえいなければ、自分は自由だったはずだ。この王女のせいでここにいるのだから、せめてこれくらいの思いはさせてもらおう。そう考えてしまった記憶の騎士がいたとしても、分からない話ではない。
 だが、それは思い留まらなければならない、大きな間違いだ。記憶の力が忘却のせいで存在している以上、忘却の力もまた、記憶のせいで存在している。二つは対で、どちらが先にあったのでもなければ、どちらが弱い立場にあるのでもない。冷静になってみれば分かることだ。忘却の王女にだって、否、彼女たちにこそ自由などない。
「ユリア様は運がいい。同じ時代に生まれた記憶の騎士が、お前で」
 言葉をなくしてしばし呆然としていたタガンに、アドはそう言って、心から安堵したように息をついた。その姿に思わず、タガンが口を開く。
「運なんかに任せないで、どうして騎士を罰して、王女を護らないんだ。僕がそうだったら、誰もユリアを庇って立ち上がることはなかったのか?」
「あまりに酷いと判断すれば、それは」
「傍から見てそんな有様になる前に、助けないのはどうしてなんだ。忘れるから大丈夫だなんて、それでいいわけがないだろう」
 何もかもを忘れてしまう彼女たちは、抵抗するということを知らない。だからこそ的になってしまうのだと、分かっていながら同じことが繰り返されてきたのはなぜなのか。声を荒げたタガンに、アドは首を横に振った。外套が滲み始めた夕日に、蝙蝠のように揺れる。
「お前には、分からない」
「そうだよ、分からないから聞いて……」
「我々にとって、お前に。いや、記憶の騎士に対して声を上げるということが、どれほど恐ろしいか」
 一瞬、言われた意味が分からなかった。え、と困惑したタガンに、言葉を探すように長い溜息をついて、アドは言う。
「記憶も、忘却も。この世界の事象だ。眠りと目覚め、生まれることや死ぬことと、同じようなものだ。覚えることも、忘れることも」
「……うん」
「それを司るお前やユリア様は、私たちにはどこか、自分と違った存在に見える。それ自身であるお前には、分からないかもしれないが」
「……」
「信仰を守る王宮の人間にとっては、特に。空や大地に意見するようなものだ。余程の決意でかからなければ、到底言えない」
 アドの言った恐ろしさの意味は、タガンにとっては本当の意味での理解はできないものだった。記憶という事象の力を持ってはいても、自分がそれを操って何かを傷つけたことはない。思い通りに扱える剣や、それを握る腕のほうが、この身体よりはよほど強く、力あるものに思える。タガンは兵士としての訓練を積んだことなどない。暇そうに巡回する薄い鎧の兵士ですら剣を提げている王宮の中では、誰よりも非力で、捕らえようとすればいつでも押さえ込めるだろう。
 だが、そう言ったらアドはきっと、「それならお前は月や太陽を、眠りや目覚めを押さえようと思うか」と言う。つまりはそういうものなのだと、言葉の上ではタガンにもよく分かった。反発し、求め合い、その力をもって世界を成り立たせる、対になる事象。世界を構築するエネルギーに逆らうことなど、普通では考えられない。それは人の身で行うにはあまりに勇気のいる、反逆だ。
 朝、太陽がそこに出てくることを、太陽のところへ行って直接批判してこいと言われたら、タガンだって無謀でおこがましい話だと思う。同じことなのだ。記憶という事象そのものに意見することは、例えそれが人の形をした器に入って、その人間として生活していようとも、おこがましくて恐ろしい。
「お前からすれば、力を振りかざしているわけでもなく、何をしたわけでもないのに大袈裟な、と思うかもしれないが。器となった人間の性質がどのようであったかに関係なく、私たちにとって記憶とは、何百年、何千年の昔から信仰する事象の一つに変わりないのだ」
「……」
「そこに、存在するだけで。これに逆らうことなど、不可能だと思わせる。そういうものが、お前の中にも潜んでいる。我々はお前を見て、タガン、お前の人間としての目の奥にいつもその存在を見る。それが例え、お前にとって故意に見せたものではなかったとしても」
 我々が恐れるのはそれだ、と。タガンの胸の中心よりわずかに左に人差し指を当て、アドは漆黒の目を伏せた。息を潜めていた記憶の力が、居所を的確に見抜かれて強張る。その皮膚の下に、心臓がある。さらに向こう側に、あの銀色の塊のような、理性と本能の溶け合った結晶があるのだ。
 それの在り処を直接見定められたように、タガンはアドが指を下ろし、何かを言おうとするような素振りで口を開きかけて、結局何も言わずに横を通り抜けていくまで身動きが取れなかった。とん、とん、と革靴を履いた足音が遠ざかっていく。長い廻廊の屋根に反響して、それはタガンをぐるりと一周した。
「――アドアダリデ」
 振り返れば、ランプブラックの背中がぴたりと歩みを止めた。アドをそう呼んだことは、十八になってここへ来て、初めて会ったとき以来であった。広い肩が、緩やかにタガンのほうへと向き直る。
「貴方のような人でも、僕は怖いのか?」
 廻廊は右手に沈む夕日によって、手すりも足元も、天井までが赤く染まっていた。アドの顔にもその光は差し、目頭の窪みに落ちた影を濃くする。タガンの髪も同じ赤みに照らされて、癖のないストーングレイは古い彫像のようにそれを受け入れて輝いた。瞬きを一つするだけで、震えるような沈黙がそこにあった。
「力で敵わないものは、何だって恐ろしい」
 アドがぽつりと、呟くように答えた。
「なまじ力を持って、剣など振っていれば尚更だ。どう足掻いても戦えないものがあることに、気づいてしまう」
 暖かくもなく、冷たくもない風が吹き抜ける。自嘲するような、かすかな笑い声が聞こえた気がした。前髪が煽られて、アドを中心にした眼前の景色がグレイに染まっていく。
 ――ああ。


- 17 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -