第Z章


 爆発のような、それにしては甲高く、金属が壊れたような響きを内包した轟音が王宮の窓を震わせたのは、エイルが部屋へ戻って雪を払ったサンダルをテラスに戻し、再び寝台へ潜り込んだときだった。横になった身体を跳ね起こさせて、窓に駆け寄りカーテンを開ける。ほとんど同時に、部屋のドアが慌ただしく叩かれた。返事をする暇もなく、血相を変えたメイドが転がるように入ってくる。
「エイル様、ご無事ですか! 今の音は一体……」
「大丈夫、何ともありません。それより、あれは……」
「エイル!」
 ドアが閉まるところをちょうど目にしたのか、寝間着に厚手の肩掛けを羽織っただけの姿で、イースも駆け込んできた。エイルの傍に立っているのが馴染みのメイドであることを確認して、ほっとしたように息をつく。イース、と思わず名を口にしたエイルは、どこも怪我を負っている様子はない。ただ、カーテンを掴んだまま顔を蒼白にしている。
 その窓の外に映った景色を見て、イースも愕然と目を見開いた。
「塔が……!」
 呟いた声に、誰も答えることができない。メイドも、次々と駆けてくる護衛の兵士たちも、皆が呆然とその光景に足を止めた。
「凍っている……?」
 ぽつりと、俄かには信じられないといったふうに、誰かの声が呟く。窓の少し下に見える空中廻廊の先、白の塔が氷に覆われていた。
 元々、雪を積もらせていた塔だ。朝にはあちこちから氷柱が下がる。だが、今ここから目に映るのは、そんなありふれた景色の一端ではない。厚く、蒼く、透明な氷が白の塔を覆っている。それはきらきらと朝日を受けて輝き、王宮の人々が息を呑んで見つめ、町の人々がざわめきながら見上げる中で、最後に天窓を囲む王冠のような屋根までも覆って、ついに塔のすべてを氷の中に収めてしまった。
「な、なんだあれは……」
「塔だ、白の塔で何があった!」
「爆発じゃなかったのか?」
「違う、そんなものじゃない。もっと、何か――」
 言葉を失ってその様子を見つめていた兵士たちが、一人また一人と我に返り、口々に何かを言い合いながら部屋を飛び出した。廊下にはいつの間にかたくさんの靴音と、提げた剣が鎧にぶつかる音がひしめいている。イースは窓の外へ目を向けたまま、ガラスに手を当てて一言も発さずに白の塔を見つめているエイルの肩へ手を伸ばした。冷たい毛先が、指へ触れる。
 エイルは誰にも気づかれずに、そっと、カーテンを離した手を腹へ当てた。

「恐れるな、走れ!」
 空中廻廊は、王宮から駆け出てきた兵士であっという間に埋め尽くされた。誰からともなく声が上がり、剣を手にした兵士たちがわあっと叫びを上げながら白の塔へ押し寄せていく。鎧と鎧のぶつかる音が、戦場のように辺りに満ち溢れた。足音が轟く。前を走る者に続き、後から後から、王宮中の兵士たちが廻廊を駆け抜けようとした。
 アドは、その最も前方にいた。外套を翻し、大理石の廻廊を駆けていく。その目に、ふと前から眩しい光が迫ってくるのが見えた。銀に煌きながら、ぱきりぱきりと何かがこちらへ向かってくる。
 その正体に気づいた瞬間、アドは後方へ向かって叫んだ。
「全員、足を止めろ! 王宮へ、退き返せえ!」
 両手を広げて、互いを押し合うように前進してくる兵士たちを止めようとする。傍にいた数人が驚いたように立ち止まり、なんだなんだと勢いを削られた列は、少しずつ速度を落とし始めた。数十歩は押されて下がりながら、アドはもう一度、一人でも多くの耳に届くように叫ぶ。
「崩れるぞ!」
 兵士たちは混乱に陥りながらも、全員が王宮へ向かって走り出した。廻廊は、崩落していた。正しくは、氷漬けになって砕かれたように、白の塔に繋がった部分から崩れてきているのだ。塔を覆い尽くした氷が空中廻廊にまで及び、まるで氷が石を食んだように、廻廊は跡形もなく崩れた。雹となって、雪に覆われた広い芝生の上へ降り注ぐ。
 王宮の扉へ駆け込む瞬間、アドの靴底を凍らせた氷は、それを最後に王宮まで進入することはなかった。崩れ去った廻廊の欠片が、輝きながらいくつもいくつも落下していく。兵士たちは全員、王宮へ駆け戻っていた。片足の靴が凍っていくのを脱ぎ捨てて扉の外へ投げ、アドは呆然と、氷に覆われた白の塔を見つめる。
 空中廻廊を失ったそれは、王宮と繋がることもなく、今や扉ごと氷に包まれてそこに佇んでいた。廻廊と違い、崩れ去る様子はない。王宮から隔絶され、透明な氷の一枚向こうで冷たく聳え立っている。ばたばたと、慌ただしく走ってくる足音が聞こえた。女の声が、すみません、と兵士たちの間をかき分けて向かってくる。
「タガン様が、お部屋におりませんでした」
 震える声でそう告げたリシェに、アドがゆっくりと目を伏せる。そして一言、そうか、と答えて再び白の塔を見上げた。

 ――身体の中が、凍っている。
 ぱき、と耳の内側で響いた音に目を開ければ、視界は初めぼんやりと滲んで、何を見ているのかよく分からなかった。ぱき、とまた一つ、硬質な音が弾ける。それは外から聞こえたのではなく、体内から響いた。
 する、と誰かの手が支えるように首へ触れた。小さな光がだんだんと大きくなってくるように、頭の芯が明瞭になってくる。暗がりだった部分がはっきりと冴え渡り、タガンはようやく、はっとして目を見開いた。眼前の瞼が、それに気づいたのかゆっくりと開かれる。透き通ったグレイの眸が、タガンのビリジャンの眸を映して、震えるように揺れた。
 それが、微笑んだからだ、と気づいたのは、彼女に口づけをされてからだった。ユリア、と呼ぼうとした唇に、柔らかな吐息が触れて、塞がれる。直後にまた一つ、耳の内側で音が聞こえた。ぱきん、と響いて鼓膜の裏側を震わせる、硬質な音。胸の辺りが、ふいに冷たくなる。それもまた、外から冷やされたものではない。
 そっと視線を動かして周囲を確かめ、タガンはその正体を知った。氷だ。部屋の床と壁に沿って所々、透明な蓮の花が咲いている。どこからか似たような音がした、と思って見ると、天窓の傍に一つ、今まさに花が開くところだ。そしてまた、身体の奥でも音がする。氷の花が、身体の内側を貝殻のように固めていく。
 それはユリアから注がれてくる、忘却の力だった。無色で冷たく、あの激情のように訴えかけてくるものは何もない。無だ。
 記憶が押し寄せたことで器から溢れ、忘却は今、ユリアによってその半分をタガンに与えられていた。時々こぼれて辺りに花を咲かせながらも、それはタガンの身の内に流れ込み、焼き尽くされて消える寸前だった身体を修復させていく。その中に、残された記憶の半分が閉じ込められて、分断された。
 炎はもう一度タガンの外へ溢れ出ようとしたが、氷の壁を這うだけで何も焼けず、諦めたように少しずつ静けさを取り戻していく。感じたことのない空洞と、空虚なようで温かくもあり、儚いようで抗うことのできない、強い力。忘却の本当の姿を知り、タガンはそれが自分の中に宿る感覚に、深く微笑った。そして。
「――タガン……?」
 記憶を手にした忘却の王女は、生まれて初めてそう、言葉を発した。


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